宮崎県都城市でオンパク事業「ボンパク(都城盆地博覧会)」を手掛けている佐土原 太志さん
都城まちづくり株式会社
佐土原 太志さん
今回は、宮崎県都城市で「都城盆地博覧会(ボンパク)」を運営していらっしゃる佐土原さんにお話を伺いました。
このインタビューは、平成22年2月13日に都城ロイヤルホテルで立命館アジア太平洋大学4回生の石田奈々が行いました。
−現在のまちづくり会社に入る以前は何をされていたんですか?
まちづくり会社に入る29歳までは、遊んでいました。大学を6年で中退して、2年は大学のあった熊本にいて、1年間イギリスに行って、ヨーロッパのまちを回って帰ってきて、「さぁ、帰ってきたけど職がない!」という時にまちづくり会社の募集があったので応募しました。
−以前からまちづくりに興味はあったんですか?
興味は、ありました。父親が市役所の職員で、ワークショップで合意形成していくのが大好きだったんです。「地域の人たちとのワークショップは面白いぞ!」という話を中学校ぐらいから聞いていました。その頃、都城では、「ウエルネス都城」 というまちづくり活動が盛んでした。いつも、張り切って仕事に行く父の後姿を見て育ち、そんなに面白いものだったら僕もやってみたいなっていうのはありました。
−イギリスから帰国した時にまちづくり会社の募集があり、以前からまちづくりに興味があったので、たまたま応募されたということですか?
そうです。でも最初の選考では落ちました。一度落ちて、しばらく経ってから「面接受けませんか?」という連絡がきたんです。一人欠員ができて、その代わりに入ったので、いわゆる滑り込みですね。
−それで、まちづくりに携わるようになられたのですね。会社に入ったばかりの頃はどんな仕事をされていたのですか?
はじめは、ウエルネス交流プラザがオープンしたばっかりだったので、交流プラザの運営をしていました。でも、そこに僕は少し違和感がありました。「まちづくりって、中心市街地活性化という意味なのか?」という素朴な疑問があって、「この施設がにぎわえば、まちがにぎわう」という言葉が交わされている中、「なんかしっくりこないなぁ」と思っていました。“施設を運営して、まちなかを賑わす”、言葉と言葉の間にギャップがあって、“具体的に何をどうやっていくか”については誰も正解を知りませんでした。真剣に考えれば考えるほど「わからないなぁ」と思っていました。ただ、それまで遊んでいて社会的な役割を持たずにいたので、毎日いろんな人と話して、発見があることが嬉しい、楽しいという気持ちはありました。
−では、具体的にまちづくりをされるようになったきっかけは何ですか?
まちづくり会社に入った時に、僕の同級生のお母さんで、まちの元気なおばちゃんに出会いました。その方に、「あんた頑張りなさいよ。」、「まちづくり会社やったら靴を履き潰すぐらいまちなかを歩いて、人と会って話すんだよ。」と言ってもらって励まされました。「それって素晴らしいな」と思ったんです。でもなかなか施設の運営が落ち着かなくて、すぐ外には出られなかったんです。3年目になる時、まちなかの店舗の人たちが集まって勉強会をしていると聞き、説明会にどんな人が集まっているのか気になって顔を出したんです。
−その勉強会はまちなかの人がずっとされている取り組みですか?
その会は立ち上がって3年目を迎えるところでした。一店逸品運動という活動のための会です。実行委員会を作って、皆で商品開発をして、PRするというような事業だったんですが、事業のことを何にもよく知らずに説明会に行きました。その時、商工会議所の職員の方が「佐土原君のところも会に入れば?」と言うので、「そうですか。そんなこと出来ますか?じゃあ入りますか。」という流れになりました。
会社には、「商店街の人たちと一緒に商品をPRする事業で、まちなかの店舗とのつながりもできます。プラザもPRできるものを出せるでしょう。」という話をして、その事業に関わりだしました。関わりだして、色んな人たちを知りました。そして、次の年からはまちづくり会社が事務局を担うことになりました。※一店逸品運動:参加店が会合(逸品研究会)を通じて、それぞれの逸品の開発や発掘を行い、「逸品フェア」というお披露目を定期的(年1回程度)に開催していく一連の活動。この運動を通じて、店主は常に自分の店舗や商品を見直すことになると共に、運動を続けることで繁盛店をつくり出し、また繁盛店を増やすことで商店街全体の活性化を図ろうとするもの。
(2007年10月vol.22 広報 都城10)−一店逸品運動の事務局ですか?
最初、一店逸品運動は市役所の事業でしたが、補助金が予算化されている4年間で事務局を自立させたいという意図があったようです。会社の理念にも合致していて、ネットワークもできるということで、それまで市役所がやっていた事務局をまちづくり会社でやりはじめました。
最初は月1回の会議に出ればいいという話だったのですが、事務局は、準備もしなければいけないので、全然それだけでは収まらなかったです。ですから、入社3年目は事務局の業務をかなり一生懸命やったという感じです。
その中で、まちなかの商店の現状とか課題とか、やってはみたけど(商品が)売れない話とか、ちょっとうまくいった話とか、そういう話を聞きながら、「このままじゃ現状は突破できないよなぁ…」と思っていました。「やる気のある商店主に応えるものって何かなぁ?」と、役員会の人や仲良くなった店舗の人たちと色んな話をしていました。
−商店街の衰退化という現状をなんとかできないかということで、ご自身が色んな方とお話されながら方法を探されていたんですね。
4年目に入ったときに、市の中心市街地活性化室という私たちの施設の所管課にスーパー行政マンが来ました。もともと、まちづくり会社が管理しているプラザと駐車場を使って、会社を経営していく基礎を作った方が、また戻って来られたんです。ものすごく仕事が速くて、アイデアもいっぱい持っていて、昨日のアイデアが次の日には進化していました。考えるスピードが速すぎて、僕なんかもうついていけなくなってしまいました。その人の仕切る会議に商工会議所とかまちづくり会社が入っていましたが、いつも空転するんです。速すぎて僕の頭の中はぐるぐるってスピンしていました。
「中心市街地活性化についてどれだけのことが出来るのか?」と考えをめぐらせていた時、その行政マンが「本当に僕らが出来るの?」というプランを、「これは?これは?」とどんどん出してくださるんですけど、僕らはなかなかそのボールを取れずにいました。「自分たちでもこのままでいいとは思っていないけれど…」と悶々としていた時に、オンパクの研修会に行ったんです。
−どんなきっかけで研修会をお知りになったんですか?
きっかけは、オンパクの研修会を知る1年前にNPOや行政との協働のアドバイザーをされている川北秀人さん(IIHOE)の研修に宮崎で参加したことです。非営利団体の運営や、支援をする意味と方法について、理論的でスッキリした話をして頂いていました。川北さんが宮崎に来られる度に研修に参加して、研修から帰ったら、まわりのスタッフにこんな話を聞いてきたと興奮気味に報告して、稟議書の形式を変えたり、お客様へのアンケートのフォーム変えたり、事業計画書づくりに聞いてきた内容を生かしたりしていました。
−ご自分で探されて川北さんのお話を聞きに行かれていたんですか?
その研修会を主催されていた宮崎文化本舗の井上優さんに誘ってもらいました。井上さんから目をかけてもらって、機会があるごとに研修等に誘ってもらっていたんです。
−では川北さんのお話がきっかけで別府の研修会へ参加されるに至ったんでしょうか?
そうです。川北さんから、「別府のまちづくりは最高に面白いよ!市民がやっている活動がすごい!」といつもお薦めされているのを聞いていました。そしたら川北さんのブログでオンパクの研修会(2007年10月開催)があることを同僚の本蔵さんが見つけてくれました。でも、そのブログに書いてあるだけで、実際オンパクのホームページを調べても、肝心の研修会の情報は書かれていなかったので、電話をしました。別府のオンパクの事務局の方も意外だったようでしたが、参加申込みをしました。その頃、別府の方々は観光地に声をかけられていたので、都城から来るとは誰も予想していなかったんじゃないですかね。「別府で何が起きているのだろう?」という疑問と、川北さんが太鼓判を押す「別府で、何が起こるのか見てみたい!」という思いで、本蔵さんと出張に行きました。
−実際に別府でお話を聞かれて、どう感じましたか?
そうですね。研修会では、座学と実際のプログラム体験などがありました。座学では、理念や仕組みがきれいにモデル化されていて分かりやすい点と、オンパクを活用しているまちの方々がご自身の言葉でオンパクでのそれぞれのチャレンジについてお話されている光景を見て「これ、すごいなぁ」と思いました。
プログラム体験では、まちあるきなどを体験をしました。まちあるきの中で色んな人が登場するわけですよ。それで、「なんてすごいネットワークがあるイベントなんだろう。1つのプログラムに何人出てくんだろう。」と思いました。その時、「あぁ、これすごい。こんなことが出来たら楽しそう!」と興奮しました。
−ではその研修会に参加されて、オンパクの手法が都城のまちづくりにも使えるという風に思われたんですか?
そうですね。そのときは、ちょうど1年後に2店舗目の大型ショッピングセンターが市街地から少し離れたところにオープンするという時期でした。プラザの隣の百貨店の客足に影響があると私たちの管理している駐車場にも影響があるということもあって、出来る行政マンに、「このままでは、まちづくり会社は経営できなくなるよ」と言われ、「確かにこのままではやばい」とは思っていたんです。30代の社員の中でも、「20年勤められる会社にするにはどうすればいいんだろう」という話をしていました。そのスーパー行政マンのプランにはうまく乗れないけど、ここのまんまじゃいけないという問題意識で別府の研修会に参加して、「うちが取り組むのはこれなんじゃないかなぁ」と感じたんです。
−最初、別府は研修会を観光地向けに推しだしていて、観光地だから出来たという意見もあったと思うのですが、そういう部分で懸念はなかったですか?
僕はあまり「観光地だからできている…」という考えはなかったです。温泉泊覧会といっても、「プログラムは温泉ばかりじゃなく、それより裾野が広い。」という感触でした。地域の人がすごく近いところにいて、顔が見えています。お客さんも、それを体験できます。プログラムを提供しているまちの人たちの気持ちが見える催しだなと思いましたし、お客さんともすごく近い距離間で関係が結べるっていうのは幸せだという風に思いました。
−研修会に参加して、都城でも出来ると確信されたのですか?
確信はしていないです。ただ、研修会の3日目に、研修会のクロージングとして「具体的に各地域で取り組むには」を考える時間があったんです。参加者は自分のまちでどんなプログラムできるか考える時間があって、地域資源30リスティングで都城でオンパクをやると仮定した場合の地域資源とその地域資源の担い手をリスト化したりしました。最後にプランを宣言する時に、一緒に参加していた同僚の本蔵さんと2人で、「やるって言っちゃった方がいいんじゃない?」という感じになったんです(笑)。「やるのはここでは決定出来ないけど、やりたいなと思っているんだし、宣言しようよ。」と相談して、『開催したい!』ということを宣言しちゃいました。※地域資源30リスティング:地域にどんな資源があるのか、またそれをどうプログラムにするか整理するために、具体的な個人名、固有名詞を挙げながらリストにしていくアクティビティー。
−有言実行ですね。
そうですね。勢いで宣言しちゃいました。そう宣言して、都城に電車で帰りながら色んな妄想を膨らましてたんですが、実際のやり方を知らないじゃないですか。「何からやるの?」みたいな感じでした。そうしたら、2007年12月に、別府の森さん(2007年当時のハットウ・オンパクのインターン生)が都城に来てくれたんです。
その頃、まちなか活性化フォーラムをしようと、市の所管課と僕と本蔵さんが企画をしていました。基本的には市が取りまとめるという話で。翌2008年2月のフォーラムでしたが、僕らが10月に別府の研修会に行った時にまだ講師もパネラーも決まっていなかったんです。
別府の出張から帰ってきて、「野上さんの話聞かせたいよね。オンパクの話は面白いもんねぇ。まちなか活性化フォーラムのパネラーにお願いしようよ!」ということで野上さんに電話で依頼をした時に、森さんが都城にいらっしゃったんです。
今思うと、別府のオンパクの方も都城で僕たちがオンパクやるのかどうかわからないから、森さんが都城はやる気があるのかどうか確かめるために来たんじゃないですかね(笑)。当時、自分たちはやりたかったですが、実際やるのかは組織的にはハッキリしていなかったですから。
−森さんとはどのようなことをされたのですか?
森さんが来て、「地域を色々見せてください!」、「知っている人に会わせてください!」と云われて、急いでいろんな所に電話を掛けて、一緒にまちの人に会いに行きました。その後、喫茶店に入って、「じゃあ、都城どうしますか?」という話になりました。
最初は、顔役である代表と、マネジメントする人、企画する人、この3人がいればオンパクは出来ると別府で聞いていたんですね。でも、企画役はやれるにしても、特にマネジメント役は自分たちができると思っていなかったんです。顔役は後でお願いするにしても、「マネジメント役が決まってないとオンパク側から支援が出来ない」ということを森さんからそのとき聞きました。
「佐土原さん、これから会社でどんなことがやりたいんですか?」と森さんに訊ねられて、僕は「自分も周りの人も、元気がめぐってふくらむようなことがしたいし、そういうことをみんなと共有したい!」と話しました。そしたら「オンパクぴったりじゃないですか!やったらどうですか!」って森さんに言われて、「やります!」と(笑)。
−では、喫茶店で確実に立ち上げが決まったんですね?
そうです。別府では代表に鶴田さんがいて、野上さんがマネジメントして、みんなを率いてオンパクをされているじゃないですか。やっぱり色んな経験を積まれた、みんなを統率出来るような人がマネジメントするのがいいと思っていたんですが、「やったらいいじゃないですか!」とその時森さんに云って貰って、「僕でもマネジメント役できるんだ。じゃあやります。やりたいとは思っていたんですけどね。」というように、そこから動き出したという感じですね。
今思うと、自分の想いを固めることが大切だったんですね。「できるか、できないか」じゃなくて、「よし、やろう!」と腹を決める感覚ですか?背中押してくれる人も重要ですよね。まちの状況や会社の周りの環境など旅立つ理由は揃っていたので、あとは「やる!」と決めるだけだったんでしょうね。
−実際スタートさせるにあたって、どのように準備を進められたんですか?
森さんが2007年12月に入って、翌年2月のフォーラムで野上さんが来られました。フォーラムの前に、「フォーラムの前日にボンパクの地域説明会をしませんか?」と森さんから云ってもらいました。「あと数日しかないけど、地域説明会に誰を呼ぼうか?」と考えて、「電話かけまくろうぜ!」ということでまちの人に電話で声をかけました。知っている人だけでは、足りないので、知っている人に「誰か元気な人知りませんか?面白い人知りませんか?」と聞いていきました(笑)。そうしたら、「誰々さんがいいと思うわよ。」と紹介してくださる方がいて、また、紹介された人に電話をかけて、「説明会にいらっしゃいませんか?」とお誘いしました。
−土壇場でのお電話でも来てくださる人はいましたか?
面識のない方にそんな風に電話していたら、末永さんというグリーンツーリズムの活動をされているおばちゃんに「オンパクの説明会?オンパクやるの?」と訊かれて、咄嗟に「やります!」と答えました。「じゃあ行く。私加勢するわ!」って仰っていただいたんです。その人は、以前、オンパクの野上さんの話を聞いていて、自分でやりたいと思っていたけれど、ちっちゃい市民団体をまとめるのは大変だから誰かやってくれないかなと思っていたと言うんです。だから、僕から電話があった時に、即「加勢したい!」と言ってくださいました。ただ、そのとき私が、電話口で「やります!」って返事していなかったら、会場に来るつもりはなかったということを後でその方から聞きました。※末永さん:末永陽子さん。ボンパク実行委員会のメンバーでもあり、「ばぁばの知恵袋 さくら」の代表としてもプログラムを提供するなどして活躍する、明るく笑顔が素敵な女性。
(ばぁばの知恵袋 さくら:高城・石山地区で素材とばぁばの知恵を生かした活動に取り組む女性4人組からなる団体)
−そうだったんですね。ではそうやって地域の元気な方に説明会をされたんですね?
地域説明会には、商店の呉服屋の女将さんとか、郵便局長とか、10名位の市民の方が来てくれたんです。それから、まちづくり会社の社員と行政職員、観光協会の方なんかにも来てもらいました。
説明会が終わった後に、市民の方々に、「まちで楽しいことしませんか?よかったら実行委員に入ってください!」と言って実行委員に入ってもらいました。市民の方と実行委員会を作って、2008年の3月初旬に、4〜5人でミーティングをしました。ミーティングをしたら、「1個プログラムをやってみようよ!」ということなって、みんなでまちの中を歩いてみたんです。
まちづくり会社の社長自身がまちなかでずっと暮らしてきて、商いもされていて、まちなかの人達のことも詳しいしということで、「明日まちあるきしますから社長がご存じのことを歩きながら話してください」と社長にお願いして、実行委員のメンバーの人たちを連れてまちあるきをしました。社長は、僕たちがやりたいことに理解を示してくださっていて、前々からまちの歴史に興味を持っていました。
まちあるきをする中で、近くのお寺の奥さん、坊守さんとお話ししているうちに、「お茶出してあげるわ。うちにおいでよ。」と言ってくださって、お寺で話を聞いたり、狭い道を歩きながら、ガイドの社長のエピソードを聞いたりしながらのまちあるきでした。
その後、みんなで分かち合いをしたのが古い喫茶店だったんですけど、末永さんから「高校時代、その頃の彼とここでデートした。今のお父ちゃんじゃないよ。」という話などが飛び出して、盛り上がりました(笑)。そういう思い出と発見が交差する感じ、「まちあるきの楽しさってこれか!」と思いましたね。
−では、徐々に都城でのオンパクの実施に向けて気持ちが固まったいったのですね?
あ〜、それは別府のハットウ・オンパクのみなさんやアドバイザーの方々の支援体制が素晴らしいんですよ。2007年の12月に「ボンパクをやる」と決めて、翌年の2月に実行委員会を立ち上げ、3月には函館の研修会に1人講師で行って、会社や都城の現状を話す機会を頂きました。「何も始まってないのに発表?!」と思いながらもプレゼン資料を作り、発表しました。「地域の現状は?」といわれても何が地域の現状なのかわからなかったです。でも、アドバイザーの方や、他の地域の方から、アイデアをたくさんもらって、ジェットコースターに乗っているみたいでした。
オンパク研修会は、参加者の思いを固める運営が上手いんですよね(笑)。オンパクに取り組みたくなっちゃう。研修会で「やります!」と言っておいて「途中で辞めました」というわけにはいかないですよね。退路を断つということと貰ったアイデアなどでだんだんと決心も固まっていきました。
−函館で他の地域の人たちとは、どのようなお話をされたんですか?
函館の研修中、10月の別府研修会でわたしたちと同じ時期にオンパクを始めることを決意した総社の加藤さんが、アドバイザーの方からのアドバイスを聞いて、泣き出して、研修会が白熱しました。「なにやらすげー」という感覚でした。次のセッションで、総社の加藤さんの姿がみえないなと思っていたら、ホテルを飛び出して海岸に逃げたと後で加藤さんから聞きました(笑)。函館の研修会は壮絶な研修会でした。本気でやっている方々の横顔を見て、先に取り組んでいる別府とか函館とかいわきの方々の話を聞いて、「オンパクをやるってこんなことなんだ。」と思いました(笑)。取り組んでいる人たちの真剣さや取り組む姿勢も伝わってきました。
−イメージも出来てきたのでしょうか?
そうですね。地域でオンパクのプログラムを体験すると、「地域を巻き込んで出来上がるこういう姿もありだなぁ〜」とオンパクの輪郭がつかめてくるという感じでした。ただ、まだプログラムの作り方や組織の作り方などについては、分かっていませんよ。あくまで、都城でやる博覧会の最終イメージが膨らんできたという状況でした。
都城に帰ってきて、実行委員会のみなさんに報告して、「これから何できるかな」と考えました。その時の課題としては、まだ実行委員長が見つかっていない状況だったので、まず実行委員長を探しました。
会社に入って2年目・3年目あたりから、4半期に1度、まちづくりをしている方や行政マンと集まって飲みだしたんです。まちの色んな人と飲んで話すのがとにかく好きな面白い行政マンが呼びかけ人で、以前まちづくり会社の取締役だったというまちなかの書店の社長を中心に、まちの若い人たちなどを集めての飲み会でした。ある時、「この飲み会に新聞記者を呼んで飲み会しよう。情報を新聞社に提供する時にいい関係が出来るから役立つよね」という行政マンからの提案で、それからは毎回、記者さんと日程調整しながら飲み会をしていました。それから、新聞記者さんとの関係も出来てきました。
2008年の3月の飲み会で書店の社長さんと飲んでいた時、「今度、オンパクするんですよ!」って熱病にうなされたように言ったんです。そうすると「何のためにするの?」と聞かれたので、「まちで元気に活動する人を増やします。応援してください!」と言いました。「はぁ、わかった、わかった。君がやりたいのはよくわかった。」という感じでした(笑)。
実行委員長を探した時に、今までまちにはないタイプの試みだったので、フレッシュな人がトップに立ったほうがいいと思っていました。それでまちなかの書店の社長・中村さんのところへ、本蔵さんと一緒に行って、「実はお願いがあって来たんですけど、実行委員長をしてください!」って言うと「うん、わかった、やろう!」って快諾して頂いて、即決で話を何も聞いてない状態なのに握手してくれました。
「いいんですか?まだ何も話してないですよ。」って訊くと、「飲み会でちょっと話を聞いていたので、今日、二人が来たときから決めていた。」と言ってくださいました。ちょっと感動もので、涙が流れました。そうやって実行委員長が決まりました。
その後「じゃあ早速、プレスに情報流そう!」、「もうやるって言っちゃおう!」と、実行委員長が一気にプレスリリースを流して記者会見しました。
−実行委員長を確定する際もドラマがあったんですね。「ボンパク」をやると発表してから、何が起こりましたか?
別府から森さんが来てくれて、「これで、組織は整いましたね。早速、プログラムづくりのための関係を作っていきましょう。」と云われ、地域資源30リスティングの担い手の部分のところに名前をドンドン挙げていきました。でも、そのリストに協力関係を書く欄があるんですが、担い手の方々とほとんど関係がなかったんです。そこで、森さんが「じゃあ関係を作っていきましょう!」と言いました。「え、全部!まぁでも電話しようか。」といって、電話で色んな所にバァーッとアポ取りしました。
その後それぞれに散って行って地域の人と色々お話をしたら、「みんな集合!」という感じで、エクセルで作った表に『この人とは関係が出来た、やる気あり』、『こういうこと出来る』というようなことをまとめていく作業をしました。
−それをしていたのは佐土原さん、本蔵さん、森さんの3人ですか?
はい、3人です。
−実行委員の方はその時期どのように関わっていらっしゃったんですか?
実行委員のメンバーは基本的に別に仕事を持っていて、ボランティアで関わっていたので、関われる時間が決まっているんです。それでも週に1回位集まって、みんなでプログラムのアイデアを挙げました。プランニングシートに50ぐらいは企画案を書いてもらったんじゃなかったかな?
担い手がいる場合は、実行委員会メンバーが知っている人であれば、紹介をしてもらいました。誰も知らない場合は、こちらからアプローチしてプログラム提供者候補の方々と会っていきました。そこを詰めていくという調整を、ほぼ3人でしていきました。あとは、末永さんは地域の人をよく知っているということで、電話をかけてアポイントをとってくれました。1年目は色んな人に会いに行きましたね。
そんな中で、コンサートをやりたいという実行委員のメンバーがいました。「アーティストはいるけど、場所どこでするのよ」という話になりましたが、「場所わからないから、どっかいいとこない?」と、みんなにアイデア出してもらうと、「神社でしよう!」、「お寺でしよう!」と色んな意見を出しあいました。1つ1つその実行委員のメンバーが場所を見に行って、「なんかイメージが違った!他の場所ない?」というように詰めていきました。
−佐土原さん、本蔵さんが中心となってリストを作って潰していくなかで、サポート出来る部分を実行委員のメンバーが入ってくという感じですね?
そうですね。最初、これから何をどういう風にするのかわからずに仲間探しをしましたが、その中で参加していただいた実行委員のメンバーはありがたいです。みんなで大切にしたいこと、伝えたいこと、まちの人でこんなこと考えている人がいるよ、みたいな話題を話すと、誰かの思いをみんなで共感できていきます。そして、それをまた広げていくことが出来るんです。
−一緒に取り組む仲間の存在は大きいですね。すみませんが、第1回目の「ボンパク」に至るまでの経緯をもう少しお聞かせください。どれくらいの頻度で森さんは来ていたんですか?
森さんは2008年の4月から1ヶ月に1回くらい来ていましたが、6月位になってこれはやばいということになって、2週間に1回来て3日〜1週間滞在というペースでした。5月ぐらいに森さんが来てくれて一緒に作業して、6月にまた森さんが来た時に全然作業が進んでなかったんですよ。
−それで、森さんが来る回数が増えたんですね?
はい。森さんが6月に来た時に、はじめて地域の酒造メーカーから大口の広告が取れたんです。中村委員長から「この会社の専務さん、同じ勉強会で可愛がってもらっているから、行ってお願いしてみよう!」と言っていただいて、「こんなことやるんです!お願いします!」って頼みに行くと、酒造メーカーの専務さんに「よし、わかった。」って即決してもらいました。「やったー!これで出来る!」と、委員長と帰り道、握手をしました(笑)。
−じゃあ最初の広告は結構すんなりと決まったんですね。
なんとかですね。ただ、森さんが来て、「プログラムどうですか?」と聞かれると、「うーん、そっちは進んでません…。」「じゃあ今からやりましょう!会議しましょう!」ということで、プログラム作成作業を再開しました。
−そこから1ヶ月眠らない日が続いたという話をお聞きしたのですが…
そうです。とりあえず森さんが帰るまでは充分には眠れない日々でした(笑)。でも不眠不休ではありませんよ、さすがに…。森さんが帰った後も宿題が山積みでしたね。森さんとの深夜の作業中、僕は頭からシーブリーズをかけていました(笑)。もう本当に眠むくて、その頃3人で栄養剤をがばがば飲んでいました。
−大変なプログラム作成作業だったんですね。具体的には、どのようなことを行っていたんですか?また、どの部分が一番大変でしたか?
新しい人に会って、関係を作って、企画を練る!そんな流れでした。
地域に行って話をすると、その地域の人がいくつか「ここも出来るし、ここも出来るよ」って候補を挙げてくれるんです。そうやってアイデアを出してもらって、その場所を実際に見に行って確かめ、企画に落としていくんです。ただし、話をしに行った時点ではその地域の人たちとも初対面なので、「ここからどうやって企画作るん?」みたいな感じで、そこは頭が回らなくて結構大変でしたね。ただ、どの段階も全部森さんが作ってくれたシートに落としたんです。だから結構ロジカルに進めていけましたね。
シートは、実際に時間と場所とそこで何をするかを書いて、経費がどのアクティビティーでいくらかかるかっていうのがわかるシートだったんです。
そのシートを埋めていきながらイメージして、机にポストイットいっぱい貼って並び替えて「それだったらいけるか」ということを夜のファミレスでやっていました。
ご飯食べたら、「ポストイット出しましょう!」みたいなこともありました。順番に並べて、「明日これを確かめましょう!」といって電話をして、またその地域へ行きました。もうスパルタですよ。でも、どんなに前の晩遅くても、次の朝には昨晩話したことがシートに落ちている、次の段階のシートが出来ていました。森さんはスゴイなと思いましたし、自分の地域のことなので、こちらが弱音を吐くわけにはいきませんよね。
−そういう作業があってプログラムが出来ていったんですね。最終的にプログラムを全部作り終えたのはいつ頃ですか?
最終的に全部プログラムを作り終えたのは…作り終えてないです(笑)。作り終えないで、ガイドブック制作に入ったんです。ガイドブックを8月5日位に入稿しているので、だいたい森さんが帰ってすぐの6月20日位に、企画と同時進行でガイドブック制作に入りました。
−ガイドブック制作に関する思い出深いエピソードはありますか?
ガイドブックの文章を書く時に、森さんが来て、「ここの人はどういう特徴があるんですか?」と聞くので「地域作り頑張っています。」と答えると、「それ、面白いんですか?」と言われました。「確かに、頑張っているだけでは、魅力伝わらないよね。」と、はじめはそんな感じでした。
要するに、そこの地域の特色とか、どういう体験が出来るかとか、記事を書く時にチェックするべきポイントを意識して書かないといけないと気付いたので、どういう記事が面白いかとかを研究して、こういう要素が入っていれば魅力的になるという要素を文章に入れて、チェックリストをクリア出来る文章を作っていくという作業をしていきました。
−そのチェックリストも森さんが別府から持ってきたのですか?
いいえ。別府のオンパクのガイドブック見ながら、「この文章いいね。伝わってくるね。この文章のどこの部分がいいんだろう?」と、要素を抜き出していったんです。それで、『プログラムで体験できることは具体的か?』、『注目してほしいところは明確か?』、『ストーリーがあるか?』という3項目のチェックリストを作りました。
−自分たちでガイドブックの記事作成のポイントを抜き出して、それをチェックリストにしてクリアしていくという流れで進められたんですね?
そうです。実際ガイドブックにいろんなプログラムをレイアウトして、全体像がおぼろげに見えるという段階で別府の末田さんに入ってもらって、企画とガイドブックをさらに魅力的に見せるためのアドバイスをもらいました。そのとき、まちのお肉屋さんの料理教室にスポーツジムでの運動を加えたりして、プログラムが華やかになりました。
−なるほど。プログラムとガイドブックの魅力的な見せ方は重要ですもんね。
ガイドブックを8月に入稿して、10月に「ボンパク」が実施されるまでの間はどんな作業をされていましたか?
その間はプログラム提供者の会議を2回したので、結局初年度(2008年)は3回会議をしたことになります。ガイドブックが出来る前に1回みんなで集まりましたが、それも本当に手探りでした。
「お弁当出すと人が集まりやすいですよ」という別府の末田さんからのアドバイスに忠実に、お弁当を出して、お仕事をされている方もされていない方も来られる時間帯で、昼と夜2回やりました。
会議では、最初の時間で手短に実行委員会側から伝えることを話して、あとはプログラム提供者に自分のことや自分のプログラムのことを話してもらうという運営にしました。
−会議以外には、どんなご準備を進められたんですか?
準備としては、「出来たガイドブックをみんなで配りましょう」という意識統一が必要だったので、そのための会議をやった後、それぞれがガイドブックを持って、色んな人にお勧めしに回りました。
それからの実行委員会のメンバーの活躍はすごかったですね。実行委員が、自分の地区の小さい商店やスーパーや床屋、あらゆる場所にガイドブックを置いていきました。それと同時に、実際にボンパクを運営する時のスケジュールも作りました。8月末から、ようやく予約受付のスタッフを募集して面接をしました。
また、この頃でも、まだ講師として完全に決まっていないガイドさんと歩いて、「この家は風流ですね、入ってみましょうか?」と言って入ってみて、「もし良ければお茶でも飲ませてもらえますか?」みたいな話をしたりして、プログラム詰めていました(笑)。
プログラムを作りつつ、一方では運営でどういう人が必要か、何人必要かみたいなことを考えていきました。でも実行委員会が7人しかいないので、運営が回らないんです。1人ずつプログラムのアテンドをしたら、予備の人員がいなかったんです。運営スタッフが少ないのは苦労したところでした。※アテンド:プログラムに付き添ってプログラム運営のお手伝いをすること
−では、運営スタッフの不足で1回目では大変苦労されたんですね?
実行委員会の7人も忙しい時があって、出られる時は全面的に協力を貰っていましたが、基本的にはまちづくり会社のスタッフがお釣りや領収書などは持っているので、僕と本蔵さんが遅れると始まらないんです。実行委員の方にまるごとお任せという企画はなかったと思います。全てのプログラムで当日も僕らが現場に行って、アテンドとして入って、ガイドのフォローとお客様の相手をするという感じでした。
そういえば、もうすぐボンパクが始まるという時に、別府の末田さんから「オープニングイベントしないんですか?うちの鶴田が『都城行きたい!』って言ってるんです!」と電話が掛かってきたんです。「おいおい、オープニングイベントだってよ!予定になかったのになぁ…」と慌てました。話題作りのためにやった方がいいということだと思うんですけど、こちらは最初の運営で慌てている時に、絶妙のタイミングで電話掛かってきたんです。急いで、オープニングイベントの準備をしました。−じゃあオープニングイベントもされたんですか?※オープニングイベントはプログラム開催初日に実施されました。
行いました。「せっかく行くので、観光協会の会長さんとか飲み会に誘ってみられたらいかがですか?」と末田さんに云ってもらって、商工会議所の会頭、観光協会の会長、まちづくり会社の社長、ボンパクの委員長と、別府の鶴田さんと一緒に居酒屋で飲み会もしました。
「別府のオンパクから、今、僕たちの状況が見えているんじゃないか!?」という絶妙のタイミングで電話やメールが入るんです。近視眼的になっているところに、柔らかい語り口でお誘いがあるので、対応することで見えてくるものありました。出来ないと思っているのは、意識の問題で、やる気になれば、なんとか出来ちゃうんです。いろんなやり取りの中で、そこら辺をやさしく教えて頂いたんでしょうね。
−そうだったんですね。少し時間を戻しますが、予約がスタートする時はどうでしたか?
ガイドブックを配った8月頃に、「これは成功するに違いない!」と確信しました。ガイドブックが出来たことに感動して、実行委員も僕らも一生懸命配りました。「これはいつもやっているイベントとは全く手ごたえが違うぞ!」と思っているところへ、ガイドブックに予約受付の開始日が9月20日と書いてあるにも関わらず、ポツポツ電話がかかってきたんですよ。「どこでガイドブックを取られたんですか?」と聞くと、どこで取ったとか、誰々さんから貰ったとか、何に参加したいとか、何と何が楽しそうだとかいう話をしてくれるんです。その時「あぁ、これだったら集客は成功するな」と思ったわけです。
−では、その時が「これはいける!」という風に思われた最初の瞬間ですか?
最初に「これはいける!」と確信に変わったのは、その時です。2007年の12月にやるって決めた時からオンパクをやって失敗するとは全然思ってなかったですね。ただ、つくり上げるのは大変というのがありました。実際やったことがないので、あとどのくらいで今やっていることが出来るのかわからず、決めましたから。「プログラムを作って、ガイドブックにするまであとどれだけ作業があるの?」という感じでした。でも、失敗するとは全く思っていなかったです。別府のオンパク見たイメージと、ハットウ・オンパクの支援の内容が素晴らしかったので信頼していました。それが成功の確信に変わったのは、ガイドブックを作って配った後に電話が掛かりだしたこの頃ですね。
−そうなんですね。では実際プログラム実施がスタートして、何か問題になったことはありませんでしたか?一番苦労されたのはやっぱり主催のプログラムでしょうか?
主催プログラムですね。大変でした。初めてなので、お客さんが会場でどのように動くか、わからないのと、僕たちがどんな風に楽しんで貰いたいのか、ということがはっきりしていなかったんです。他の団体の方々がガイドや講師の時には、お客さんの目線で想像して、イメージできなければ、丹念に話をしていましたから、大丈夫だったんですが、自分たちの時のプログラムを後回しにしていたんです。
−そんな大変な部分もある中で、第1回目の「ボンパク(都城盆地博覧会)」(2008年10月4日〜19日開催)が終わってみて、どう感じましたか?何か印象に残っていることはありますか?
お客さんとスゴく近い距離で色んな事を話せることが、「いい体験だなぁ」と印象に残っています。
最後のあたりは、5つも6つも参加してくれているおばちゃんたちと毎日会うという状況でした。
子牛の競り市見学という、プログラム実施数日前まで申し込んだ人が1人もいないプログラムがあったんですよ。そこで、他のプログラムに複数参加しているおばちゃんたちに話すと興味を持っていただいたので「最高ですよ〜。行きません?一緒に楽しみましょう。」とお誘いして開催しました(笑)。ガイドをお願いしている方もいるし、都城でプログラムを提供するなら、これがしたいというプログラムだったので、開催中止は絶対に避けたいと必死で集客しました。結局7名ぐらいの方に参加してもらって開催しました。
私も行ったんですが、面白かったですね。ガイドの方が非常に熱心に説明してくださって…牛丼も食べました。最後に参加者の1人が「農家の方が丹精こめて牛を養って下さっていて、最終的に私たちが食べているおいしいお肉になるのね」と云って下さって、「やって良かった」と思いました。そういう経験をして「これは、ホントに楽しいなぁ〜」と思いました。※子牛競り市見学プログラム:JA家畜市場にて都城産の子牛が競られる様子を見学するという、第1回目のボンパクで実施されたプログラム。
そうそう、思い出しましたけど、全プログラムが終わったあと、会計が全然出来なくて、最悪でしたね。会社の金庫に、お釣りと参加料金をもらった何プログラムかのお金が残っていたんですが、そこのお金が合わないんです。精算が終わらないうちにそこから次のプログラムに持っていくお釣りを取り出していて、収支が合わないのだけれどいつ合わなくなったのかわからなくなってしまいました。もう全然合わなくて、経理スタッフに緊急出動してもらうという事態になり、いつも優しい局長もカンカンでした。
そういうことがあって、3月末まで、次回ボンパクに向けてボンパクの実施体制をどう改善するか、報告書・計画書を何度も出しました。
−じゃあその辺は2回目ボンパク(2009年10月10日〜11月1日)の時はばっちり改善されて、準備もスムーズに進んだのでしょうか?
2回目は、1回目に比べると段違いにスムーズでしたし、企画面でも充実させました。2回目は、1回目のプログラムづくりのノウハウをベースに、プログラム提供者を公募したり、ビジネスチャレンジの事業者の方に広告掲載料をご負担いただいたり、まちなかのお店にボンパクオフィシャルチケットでお買い物できるよう協力してもらったりしました。まちの飲食店での晩酌セットにもチャレンジしましたね。提供者の公募は少し大変な思いもしました。プログラムを提供したいと集まっていただいた方の動機が多様で、なかなか掴めなくて苦労しました。
1回目は、何が起きるのかわからない中で、「PRになるかもしれないから参加してみようか!」とか、「こんなことやりたい!」と云ってもらった人たちにプログラム提供をお願いして行ったんです。ところが、一度ボンパクが行われたのを見て自分もプログラムを提供したいと来られる方や、ビジネスとしてプログラムを提供する人たちの動機が全く違うことが、企画担当の本蔵さんは調整が難しくて大変そうでした。
−どのように調整をされたのですか?
まずは、プログラム提供希望の方の動機をしっかり捉えることですね。プログラムを行うことでどんなことを伝えたいのか、これがはっきりするとプログラムをどんな方向性で仕立てていくかということが変わります。つまり、どんな種類のチャレンジなのかを把握することでしょうか。
次は、やはり参加する方が楽しいほうがいいし、ガイドブックの読者が「何があれば参加したいと思うか」という視点からプログラム企画を一緒に作っていきます。プログラム提供者は、参加者と近い距離で関わることで新しい気付きがあったり、ヒントをもらったりします。
ただし、最終的にはプログラムを提供する方とプログラムに参加していただく方のいい出会いの場を作るというのが、調整の一番大切なところですね。
2年目は、営利団体のプログラム提供者には広告掲載費をいただきました。ボンパクとしては、そんな提供者の方のプログラムにお客さんが来るようプロモーションするプレッシャーが加わりました。
広告掲載料の中に企画料が入っていますからね。お客さんが参加したくなる、参加できるプログラムをどう作るか、文章をどのように書くかを徹底してやらないといけませんでした。その部分が難しかったですね。
−その辺の調整はこれからの課題なんでしょうか?
いや、もうそれはクリア出来ています。1回経験したからもう大丈夫です。2回目の企画で事例がたまっているんです。プログラム企画に関してこれはミスディレクションだったっていうものに対しても、こういう時はこうしようっていうのを組織で反省しています。
あと、プログラム提供者と企画をする時のコミュニケーションが大事ですよね。このコミュニケーションが上手くいかないと、プログラム提供者の方のチャレンジの舞台が整いませんから。
例えば、企画をつくっている段階で、日頃忙しいプログラム提供者の所へ、私達が出掛けて行くと、その場で企画が進むということも体感しています。普段は、日常のことに忙しく、プログラムを作りたいと思っていてもなかなか考えられないですが、私達が伺うと、その時間はプログラムのことを考えることが出来ます。
これは、ちょうど1回目の時に私たちが進められていない時に、別府のオンパクから森さんが来ていただいて、その時間はボンパクのことを考え、推進できたという経験から来ているんです。1回目に別府に支援していただいたことがこんな場面でも役立っています。
−では、実行委員のみなさんは経験をケーススタディとして積み上げ、共有されているということでなんですね?
はい。反省会をして、みんなで起こったことを挙げて、対応するものを決めて、改善策を練っています。それを実行委員会メンバーで共有するということを行っています。
−他にも活動の向上のためにされていることなどはありますか?
オンパクの研修会に出た時に、他の地域でやっていることで、「これいいな」と思うことがあったり、他の地域のオンパクをやっている仲間に「都城ではこんなことできるんじゃない?」と言ってもらえたりするんです。
僕は、「こんなことやったら?」と言われて、イメージできたことは大概チャレンジすることにしています。毎年同じことをやっていると話題性も減っていってしまうので、違うこと・新しいことを付け加えていきたいなと思っています。でもそういうのは全国のメンバーから学んだことです。全国のメンバーも自分の地域で毎年色んなことにチャレンジしていますもんね。
僕らの新しい取組みは、ほとんど誰かから考えを頂いたもの、誰かとの間で交わされた会話からきたものですね。自分にないといけないのは、問題意識を持っておくということと、新しいことに取り組むということですね。
−誰かと交わす会話や研修会からいかに自分自身が吸収出来るかということですね。
地域でいろんな人と話をして、企画をして動いていると、小さいことから大きいことまでごちゃごちゃになっていきます。だから、全国のみんなに会った時に話すと、また新しい発見があり、そこから新しいものが生まれていきます。いろんなヒントもらえますし、新しいことを始めるときも、他の地域の方に問合せが出来るので助かります。今、取り組んでいる各地域のメンバーは、オンパクの地域づくりの理念を共有しているのもいいですね。同じ頃に立ち上げた地域の方とは、それぞれの以前の状況もお互いにわかっていますから、感慨がありますね。
−都城市に合併した後に、合併した地域間の連携をボンパクで繋げていきたいとおっしゃっていたのを以前お聞きしたのですが、ボンパクを通して実際強くなっていると感じられることはありますか?
強くなっていますよ!
プログラム提供者がボンパクで知り合った他の提供者のところへ会いに出かけて行った話を聞いたり、プログラム提供者同士が仲良くなり一緒にイベントをやったり、事務局に気になる方へ問合せしたいから連絡先を教えてくれというような問い合わせもよくありますね。そんな交流が起こっているのを聞くと『やっててよかったぁ』と思います。新聞記者の方も、私たちの事務所を訪ねてくださることが増えました。
今月(2010年)1月の市の広報誌では、表紙をめくるとぶち抜きで「魅力ある地区の特集」として都城市内のゲンキな地区が取り上げられています。秋のボンパクの時に、広報マンが来て撮った写真がそこにバーッと使われていました。広報誌に掲載されていた地域の方に電話を掛けると喜んでいて、私たちも一緒に喜びを分かち合いました。
あと、電話をしているといっぱい嬉しい知らせが届きますね。そういうのはいいですよね。
その時僕らが「今どんなことに取り組んでいます?また、新しいことやりましょうよ」とお誘いすると、次のアイデアをちゃんと考えてくださっています。お客さんにコメントしてもらったことから、新しいアイデアが生まれていて、何かが動き出したかなと思うと、嬉しいですね。
また、プログラムが終わった後に、パートナーさんにインタビューしてその内容をまとめるという活動も行っています。これは、企画しているときより楽しいかもと、私は1人秘かに思っています(笑)。何が起こってどういう変化があったのか話を聞けるので、プログラムを作っている時よりも心地よいです。その人の数ヶ月前の姿を思い出すこともありますし、何よりやる気が増大して、次にやりたいことを語っている人が目の前にいますから。ボンパクを応援してくれているスポンサー企業の方には、報告書などに付け加えてこのインタビューシートもお渡しするようにしています。
−そういう嬉しいお知らせは、次へのモチベーションにもなりますよね。2回のボンパクを終えられて、次やってみたいことや夢などはありますか?
この事業を黒字化しようと考えています。利益を出そうということではなくて、まちで回せる活動にするということです。会員制度を作ったり、協賛企業を増やしてボンパクを支えてくれる人たちに、ボンパクで起こったことや地域の変化を報告したりしながら、継続的に支援してもらいたいと思っています。意味づけとしては、ボンパク事業についてはこの活動の意義を確かめながら、実施していくというのがあるべき姿だと思っています。だから地域でちゃんと回せる仕組みを作りたいんです。
他には、この前、別府で研修会に参加した時に(2010年1月)、「今年のボンパクのテーマは肉でいくことにしました!」と宣言したので、そういう方向でいこうと思っています(笑)。1年目はプログラムの中に地域ブランドを意識したのがちょっとあったんですが、2年目は提供者拡大にかなり力を入れていたので、地域の特色をガンと出すプログラムが少し物足りなかったと感じています。だから次は「地域ブランド」で賑やかにしたいなと思っています。特産品の牛、豚、鶏はもちろん、猪と鹿を食べられるプログラムをつくるとすごいぞ!と思っています。『これぞ、都城』という素材を使ったプログラムや、都城の良さが伝わるガイドブックを作りたいですね。あとは、まちの飲食店が休日の昼間に、肉をテーマにメニューを会場で提供して、まちで一番のお肉料理を食べられるお店を決めるイベント、『肉1グランプリ』!やってみたいですね。
−お肉が勢ぞろいですね(笑)。キッズボンパクの開催も検討していると伺いましたが、そちらはいかがですか?
キッズボンパクは昨年(2009年)、ボンパク開催前の夏休みに、たちばな天文台の蓑部さんとプレボンパクしましょうということで、「手作り望遠鏡作りと天の川そうめん流し」というプログラムをしました。天文台の階段の上から10メートル以上にわたって竹をセットして、そうめん流しをしたんですが、子ども達が興奮して、楽しんでくれたり、四家という山あいの地域でのプログラムに家族で参加していた小学生と地域の小学生が意気投合して、カブトムシの幼虫を取って楽しんだという交流が生まれました。そんな楽しみや出会いをもっと作りたいと思ったんです。実行委員会の中にも、『子どもたちが地域のよさを実感できる機会をつくりたい』というメンバーもいるし、何人かのプログラム提供者(パートナーさん)に話すと、みんな乗ってくれました。いつもボランティアでボンパクを手伝ってくれる行政の方も「それはいい」と太鼓判押してくれているので、是非やりたいなと思っています。
また、合唱の指揮者の方が「少子化で子供が減って、学校の部活動や公民館の行事などの集団活動もなかなか地域でできない現状がある」とお話されていました。プログラム提供者や参加者がボンパクでの体験で学んだり、楽しんだりするように、子供たちも体験を通して、新しい楽しみを見つけたり、学んだりすると思うと楽しみです!
−これからの地域を担う子ども達に、地域の魅力を知ってもらい、地域を好きになってもらうことは地域にとっても大事なことですよね。地域への影響力の強いボンパクですが、佐土原さんにとってボンパクとは何でしょうか?
そうですね、僕らが提供している路面電車みたいなものじゃないですかね。まちなかを色んな人を乗せて走れる乗り物です。みんなが楽しんでくれて、「頑張ってね!」とか、「私こんなものが好き!」とか、そういう想いも乗せて走れる乗り物です。
昨年のボンパクのガイドブックを見ていただいた都城出身者の方で、現在は神奈川県にお住まいの方からメールをいただいたんです。表紙裏の1ページに実行委員のメンバーがラブレターを書いたんですが、そのメールには「ラブレターに胸迫る想いだった」と書いてあったんです。そして、「それにつられて全てのページに目を通し、編集者のまちづくりに対する愛情を感じた」と書いてくださいました。これは、本当にうれしいことでした。実行委員会のメンバーで喜びをわかちあいました。こんな声に後押しされて、こんな方々の想いも乗せてまた走りたい、そんなイメージです。
ボンパクは、僕にとって「完全な成功体験」ですね。苦労したし、ガイドブックができたときや予約センターに予約が殺到したとき、プログラムを全て終えたときの充実感がすごかったので、みんなと繋がった実感がありました。また、その後も興味持った方が集まって関わってくれたことでも繋がりを実感しました。2回目を始める時にボンパクに関わりたい人に向けた説明会をやったんですが、それには55人ぐらい人が来てくれました。こんなにと思うくらい来て頂いて本当に嬉しかったです。面白いですよね。
あと、最近は、ボンパクはみんなが集う広場のようでもあるなと思っています。そこでサッカーしたり、缶蹴りしたり、自分の取り組みたいことをそれぞれが出来るんですね。ボンパクは、いろんな方が思い思いに遊べるスペースや新しいことに挑戦する機会を作れる広場みたいだなと思っています。
−ありがとうございます。路面電車、集いの広場…どれも素敵な表現ですね。
では最後に、これからオンパク手法を使ってまちづくりをやりたいと思っている方にメッセージをお願いできますか?
そうですね。オンパクの話を聞いて、「面白そうだな、やりたいな」という方には是非、挑戦して欲しいです。必ずやっただけのことはあるし、拡がっていきます。
あと、まちの中の公益的な団体、まちの中間支援組織、まちづくり会社、文化施設を指定管理者として管理していたりする団体にもお勧めしたいです。僕たちの場合は、自分たち組織の活動とまちの現状の間で課題がありました。自分たちの公益的な活動が、住民の方の役に立っているのかどうか悩んでいる公益的な組織の方にはお勧めです。
少し理念の再定義をする必要はありますが、取り組むと回りだします。オンパクの考え方や手法には、人をゲンキにする考え方や取り組みやすい方法が詰まっています。一度やると、地域や組織の中で新しく気付くこともあります。そして、何よりまちのことを一緒に考える仲間ができます。動き出すと人は集まって来ますからね。
僕らはまだ2回しかやってないですが、始める前と比べると自分たちが出来ることの可能性の輪みたいなものは相当広がっていますからね。
−質問は以上です。長時間、貴重なお話をどうもありがとうございました。
(インタビューをした個人的な感想)
ボンパク立ち上げ〜実施に至るまでの過程を細かくお話していただき、表からはわからない山あり谷ありな部分を知ることが出来ました。また、ボンパクはNPOでなく会社が運営しているという部分でも参考になる視点や要素が沢山あると思います。
佐土原さん自身、ボンパクでやりたいことを沢山持ってらっしゃるので、今後のボンパクに「都城色」がより濃く出てくるのではと楽しみにしています!
限られた時間の中でたくさんお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました!
テーマ:地域情報 - ジャンル:地域情報
- 2010/09/30(木) 17:40:08|
- オンパク 運営組織
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岡山県総社市でオンパク事業「みちくさ小道」を手掛けている住田美千代さん
NPO法人 吉備野工房 ちみち 理事
住田 美千代さん

今回は、NPO法人 吉備野工房ちみちで理事をされている住田さんにお話を伺いました。代表理事の加藤さんも同じ場にいらっしゃったので、質問をするなどして参加してくださいました。
このインタビューは、平成22年1月17日に吉備野工房ちみちで立命館アジア太平洋大学4回生の石田奈々が行いました。
−それでは、インタビューを始めます。
加藤さんとは元々お知り合いだったんですか?
元々子どもが同級生で、PTAの役員で一緒になったのが知り合ったきっかけです。
−では、住田さんはどの辺りから「ちみち」の活動に関わってこられたんですか?
一番最初のコンサートからだと思います。
−そのコンサートというのはどういったものですか?
どういう経緯でされたんですか?
ちょうど17歳の犯罪が問題になっていた頃、うちの上の子が同じぐらいの歳だったんです。中学校も荒れていたし、お互い (加藤さん)の子たちはいい子に育ってたんですけど、「なんで子供たちがこんな悲しい生き方をしてるのかな」って思った時に、それは大人の責任かなって思いました。大人の一生懸命生きてる姿が見えないから、子供たちがこんな生き方しかできないのかなって考えました。(単純ではありますが…!)
でも自分たちは何も出来ない…歌ったり踊ったり出来ないし(笑)、「じゃあ何が出来るのかな?」って考えた時、娘たちが吹奏楽をしていた事もあり、「音楽は、世代も性別も国境も越えられるもののひとつじゃないか!」ということでコンサートを企画しました。
−その時、何人で企画されたんですか?
一番最初の立ち上げは3人でした。こんなこと言うと加藤さんに怒られるかもしれないけど、実は私、コンサートの立ち上げは、加藤さんが岡山で活動している中の一貫で、そのお手伝いぐらいかなぁと思って参加したんですよ。ところがどっこい、「え、3人で一から立ち上げるの?」(笑)って言う感じで、他にも人集めなきゃ、手伝ってもらわなきゃって。
「元々3人で始めたから、赤字になったら一人30万かな〜!?」みたいな覚悟はその時しましたけどね。何せ1000人の会場ですから、周囲のみなさんから「ぜったい失敗する!」とお墨付きを頂いてました…。
−赤字覚悟でもその企画を実行されたんですよね?
そうです。元々は「私たち大人が一生懸命やってる姿を見せよう!」ということで始めたわけですから、途中でやめるわけにもいかないですよね。
−そのコンサートは、当時チケットもあまり売れないという中で頑張って1枚1枚手売りをされて、蓋を開けてみたら大盛況だったとお聞きしました。住田さんはその後も活動を繋げていこうという気持ちでいらっしゃったんですか?
ちょっとくじけて、辞めたいなっていう思いもあったりしたんですけど、でもその後も何回かそういうイベントはしました。
加藤さんと私の分かれ道っていうのが、加藤さんはそれをずっとやり続けてたけど、私はちょっと逸れて子供の方に力が向いたんです。もちろん加藤さんも子育ては一生懸命してましたよ。でも両方両立してやってたんだろうと思いますね。そこが私と加藤さんの違うところでしょうか?
−そこで逸れながらも戻ってこられたのは、なぜですか?
逸れながらも戻ってきたのは…なんなんでしょうね(笑)。
我が子だけでなく、世界の子どもたちが生き生きと元気に暮らせることを心のどこかで
ずっと願っていたからだと思います。そんなふうに言うと何だか大層なことのように聞こえるかもしれませんが、本当に漠然とそんなことを思っていました。
−加藤さんが走ってるのも見られてましたよね?
うーん、走ってると思って頭にはいつもあったんですけど、彼女は彼女、私は私みたいな部分はいつもありました。だから…なんで戻ってきたんだろうなぁ…?(笑)。
−何かきっかけがあったんですか?
そうですね…。加藤さんから、「NPO設立するから一緒にしない?」って声をかけられたことが一番大きいかなと思います。その時は何か自分に出来ることがあるかもしれないと思えましたから…(笑)。
−その時迷いはなかったんですか?
迷いもありました。今は世の中もこんな経済状態で、うちも自営業なので厳しい状況ですから。自分の本来業務とNPOの仕事、中途半端な関わり方がどちら側にも迷惑をかけていることが今でも一番のストレスです。NPOではなかなか経済的自立は難しいですから、今のところこの状況を大きく変える勇気というか、決心がつかないのも正直な気持ちです。腹をくくれないんですね。自分の立ち位置は自分で決めるしかないのは頭でわかっているんですけど…。
一緒に活動する以上内容を把握し説明責任をはたさなければならないのですから、自然にNPO活動にさかれる時間は増えてくる。わかりきっていることがなかなか出来ず、イライラしている自分がとても情けなく思えてくる。時間が取れないと、内容について報告だけを聞いてなんとなくわかったと、自分を納得させるんです。
−確かに、話を聞くことと伝えることは違いますよね。
話だけ聞いても伝えられないんですよ。頭の中では理解していると思っていても、いざ聞かれると、内容が自分に落ちていないので、表面上のことしか言えなくて。その辺がいつも苦しいですね。
−だけど厳しいながらも出来るだけ現場に行こうとされてますよね?
はい、なるべく現場に行って、見たものや聞いたことを自分に落とそうという意識でいます。経済面の方はなるべくお金を使わないようにすることで頑張ろうと思ってますけど(笑)、なかなか厳しいですね。
−本業とNPOと、住田さんご自身の中で占める割合はどのくらいなのでしょうか?
半々…いや、本当はNPOを前面的にしたいくらいです。
でも、いまは本業が7でNPOが3ぐらいかな。
−本業の方の比重が高いという状態なんですね。
話を変えますが、オンパクの手法を知られたのは、加藤さんと一緒に研修に参加されてですか?
一緒に暮らしている義母が高齢なので、家をあけると言う事がなかなか厳しいんです。
だからほとんど研修も参加してない状況でした。
−研修の内容は、加藤さんから話を聞いて、自分に落とすという感じですか?
そうです。いつも話を聞いて、こうこうだって表面だけ字面を追って、という感じです。でも全然自分に落ちてなくて、なんかやらされてる感が強かったですね。
−では、住田さんがオンパクを知ったのはいつですか?
オンパクを知ったのはちみちへ来てからですけど、それも自分の中ではすごい胡散臭いものだとずっと思ってました(笑)。「何でこんなことしてるんだろう?」、「鶴田さん胡散臭いからなんか話したくないな。」みたいに思ってました(笑)。
昨年(2009年)熱海での研修に加藤さんと参加したのですが、研修自体も胡散臭いし、なんか「加藤さんマインドコントロールされてんじゃないの?」って思って。「客観的に見ると、加藤さんこの集団ちょっと怪しいよ?」って(笑)。研修中ずっとそんなふうに感じてました。だから、研修初日の東京には行ったんですが、そのあと結局熱海には行かず、途中で帰ってしまいました。
−オンパクに対する「胡散臭さ」はいつ消えたんですか?
香川の全国まちあるき観光サミットに参加して、実際鶴田さんにお会いしました。鶴田さんもパネリストで加藤さんと一緒に舞台にいらっしゃって。その後の親睦会でお話して、本当に「鶴田さんって少年みたいな人だな」って感じたんです(笑)。そう思ったら、全体が「ああなるほど」と自分の中に落ちてきました。と同時に、加藤さんがやっている「みちくさ小道」の意味が自分の中に落ちてきたんです。
※全国まちあるき観光サミット〜てくてくまち歩きで発信。まちは宝の山だ!〜:
2009年12月12日(土)に香川で行われたサミット。まちあるき観光を通して、まちづくりに取り組んでいる団体相互の交流を促進するとともに、情報交換することで相互のレベルアップを図り、それぞれの地域への波及効果を期待する目的で行われた。
(てくてくさぬき/香川まちめぐり::全国まちあるき観光サミットhttp://www.tekuteku-sanuki.jp/pickup/summit.html)
−じゃあそこから本格的に…
そうですね、やるなら本格的に関わりたいなと思い始めました。
だから本当に最近なんですよね(笑)。
(加藤さん)それと同時に、住田さんは「ちみち」から出て、市の観光プロジェクトとかの委員になってるよね。観光連盟の地域の情報レポーターにも、代表として行ってもらってる。
※総社市観光プロジェクト:観光客の誘致拡大と総社市の魅力を全国に発信するため、平成20年(2008年)5月17日に設立された事業。
約2年間にわたり協議を行い、議論を重ね、
○総社市の観光についての基本的考え方
○総社観光宣言
○分科会からの具体的事業提案
○観光誘致キャンペーンキャッチフレーズ
○観光振興を実現するための取組 などをまとめた。
※岡山県観光連盟地域情報リポーター:住田さんは、岡山県観光連盟により平成21年(2009年)3月1日任命をうけ、地域の郷土色溢れる独自の情報をリアルタイムで発信、魅力をPRして、地域の観光振興につなげていく役割を担ってきた。
正直、そういうことに参加するのが大嫌いだけど、「ちみち」の代表として、仕方なく?参加してるんです(笑)。おかげさまで、さまざまな出会いをいただき、いろいろな事につながったので、今は「やらせていただいてよかった」と感謝しています(笑)。
−今も委員やレポーターの活動をされてるんですか?
一応両方とも任期がこの3月までなんです。「ちみち」の誰かが私に代わって出てくれればいいなって(笑)。そうやって繋がっていけばいいなって勝手に思ってます。
−では「みちくさ小道」のイベントへ話を移します。
「ちみち」というNPOが成立して、第1回目の「みちくさ小道」(2008年秋)をやる時はどんな思いでしたか?
その時は、もうやらされてる感でいっぱいでした。加藤さんの具合いが悪かったり、娘の病気、実家の母の死で、いっぱいいっぱいでしたから。気持ち的に地獄のような日々でした。私個人的には、イベントなんてやってるどころじゃなかったんです。
でもみんな頑張ってやってるし、人員が足りないのはわかってるので、やらなきゃしょうがないかなって。始めた以上知らん顔も出来ないし、みんなが苦労してたのは見えてたので。
−そんな過酷な状況だったんですね。でもそんなご苦労のある中で第1回目実施されて、プログラムも企画されてましたよね?
横田さんの八十八ヶ所のプログラムを企画しました。あれは一番最初からやりたいなって思ってたことだったんです。ずっと横田さんと話してきましたから。
※横田さんの吉備路八十八ヶ所巡りプログラム:吉備路三須地区に残るお地蔵さん八十八ヶ所を、総社の名物ガイド横田さんと一緒に歩くまちあるきプログラム。
(ジャパン・オンパク 公式HP/チャレンジパートナーズ 横田清巳さん
http://japan.onpaku.jp/partner2/?disp_group_id=17&disp_partner_id=24)
−企画立ち上げはいかがでしたか、大変でしたか?
横田さんがいろいろな手配とか資料の製本とかほとんどご自身でしてくださったんです。だから私は側にいるだけで、やることといったら連絡ぐらいで…。すごく楽でした(笑)。
−元々お知り合いだったんですか?
私はここへ来てからの、NPOが立ち上がる時からの知り合いでした。
私たちの事務所の大家さんでもあります。
−横田さんが八十八ヶ所に詳しいということは知ってらっしゃったんですか?
石仏に詳しいってことは知ってたんです。それで、「八十八ヶ所石仏(お地蔵さん)があるんだけど、今整備しないと消えちゃうよね」っていう話は「ちみち」の事務所でちょこちょこしていたので、いいチャンスかなって思いました。
−横田さんという貴重な人材の資源と、八十八ヶ所の石仏(お地蔵さん)という地域の資源が結びついて出来たプログラムなんですね。
先ほども話されたような大変な状況の中、第1回目終えられてどうでしたか?
「あぁやれてよかった!」と思いました。地域の人たちも、自分が知らなかった地域の様々な部分が知れたって喜んでくださっていました。プログラムを実施する前のお掃除も、地域の人たちが自主的にしてくださったりということにも繋がりました。
−それが次への原動力になったり、今までやらされてるっていう意識が少し変わったりしましたか?
まぁやれば楽しいっていうのはあるんですけど、現状としては、やっぱり次も参加しようかどうかっていうのは、まだ随分迷ってました。
−まだ揺れてるという状態だったんですね。
そうですね。
−その後、第2回目の「みちくさ小道」(2009年夏)もやられましたよね?
「やってください」ということでやらざるを得ない状況だったとはお聞きしましたが…。
そうです。自分が何かプログラムを企画すると、自分が担当にならざるを得ないっていうのがあるじゃないですか?だからなるべく企画出したくないな…みたいなのはあったりしました(笑)。でも一応何かは出さないといけないなっていう、あの時は自分が何を担当したのかも全然覚えてないような状況ですね。まだずっとやらされてる感じがありました。
−それで、次、第3回目(2009年秋)ですよね。
その時のご自身の気持ちの変化というのはいかがですか?
「やらなきゃいけない!」っていう気持ちは大分強くなったし、楽しいっていう感覚はこの3回目には感じてました。自分が本当にやりたい企画をすれば、自分で責任もって出来るかなっていう気持ちは3回目ぐらいから出てきたかなぁと思います。自分が参加してみたい企画を自分が考えればいいんだと。
−その時に気付けたんですね?
はい、気付いたかな。
−ちょっと楽になりましたか?
そうですね、ちょっと楽になりました(笑)。
−第3回目、「韓国料理とハングルレッスン♪」という企画を出されましたよね?
パートナーさんの徐さんとも元々お知り合いだったんですか?
彼女とは元々知り合いです。本業の会社に彼女もいたんです。彼女は本来もっといろんなことが出来る人なのに、そこで悶々としてるのはよくないんじゃないかって思ってたんです。だからプログラムに参加することで彼女自身の道が広くなればいいかなっていうことで、声をかけました。
※韓国料理とハングルレッスン♪プログラム:「韓国文化を知り、お隣さん同士もっと仲良くなりましょう」ということで企画された、韓国料理作りと、ハングルレッスンも出来る、韓国好きにはたまらないプログラム。
(みちくさ小道 −ならう http://www.kibino.jp/modules/program7/index.php?id=15)
−その時は市の掲げる「多文化共生」というのは全く意識せず?
※多文化共生に向け総社市職員による委員会発足
市職員で構成される総社市多文化共生推進検討委員会の初回が、市役所で開かれ、総社ならではの多文化共生へ向け、研究・協議を始めた。 市長は、「多文化共生の成功事例を作るんだという意気込みをもってやろう。外国人への就学や生活支援、コミュニティへの参画などのプログラムを現実のものとするため、体を張ってやっていこう」と、委員に檄を飛ばした。
(総社市HP 市長の動き 2009年8月 http://www.city.soja.okayama.jp/shitumushitu/shityou-top/2009_08.jsp)
全く意識してなかったですね、実は。
単純に彼女が活躍出来るような場所があればいいなっていうのと、私の職場にも、同世代で、韓国のドラマとか言葉とか韓国料理に興味ある人っていっぱいいるんですよ。だからこれを企画してもたぶん人は集まるんじゃないかと思いました。あと、総社商店街の宮筋文化堂を活かせる企画がないかなと思ってたので、ぴったりでした。
※宮筋文化堂:東総社駅から徒歩15分のところにある、人と文化が交流するコミュニティカフェ。「ちみち」としての営業は今年の2月で終了しています。(コミュニティカフェ 宮筋文化堂 http://blog.canpan.info/miyasuji/4)
−実際ご自身が企画されたそのプログラムにも参加されたと思いますが、参加してみてどうでしたか?
全体を10とすると、たぶん彼女の当日の下準備が8割だったと思うんです。その辺手伝ってあげられてなかったっていう点が、次回の課題でもあります。でも彼女自身の友だちが2人アテンドとして手伝ってくれたので、とてもやりやすかったし、彼女自身も安心して出来たんだろうと思います。
−全体の雰囲気はどうでしたか?
初めてのプログラムという状況でも、彼女がすごくパワフルで、みなさん本当に楽しんで帰っていただけました。プログラム実施後のアンケートで「楽しくなかった」と書いた人が1人いたっていうのは、私も見たんですけど、今思い返しても全然思い当たらなくて…。今も気にはなってるんですけど。
−彼女もおっしゃってました。全体の雰囲気はすごい楽しそうだったから、そういう風に感じてる人がいるとは思わなかったって。
ああそうなんですね。彼女もそこを見てくれてたんですね。私もアンケートの結果を渡す時どうしようかなと思ったんですけど、話をする時間がなかったので、そのまま渡してしまって。その辺の配慮がちょっと出来ていなかったなって思います。
−でも彼女なりにすごく考えて、「こういうことろがだめだったんじゃないか」と、きちんと分析しておられました。「次に繋がる準備が出来ていて本当にすごい」と、お話を聞いていて思いました。
しかもフォローが足りてないというところも、「ちみち」として気付けたんですよね?
そうですね、気付きました(笑)。
そのまま渡すのもどうかなと思ったんですけど、その時はつい渡してしまいましたから。
−話を「みちくさ小道」に戻しますが、3回終わってみていかがですか?
形が本当に見えてきたと思います。本当に多くの方の「やる気」が育っているし、次に繋がってきています。「みちくさ小道」自体では利益につなげるのは難しいけれども、例えば商店街の中を歩くようなプログラムを企画すれば少しは商店街が活性化するように繋がっていくんじゃないかなっていうような、将来的な展望は出てきたかなって思いますね。
「みちくさ小道」の講師をされてから個人的に講座に繋げていらっしゃる方もいますし。
−そうやって繋がっていくとやりがいがありますね。これから楽しんでいけそうですか?
楽しんで…いきたいんですけどね。現実的な問題を考えると、ちょっと、まだ100%楽しめるという感じでは…。
(加藤さん)その状況を整理してくださいって言ったら変だけど、どうしていくべきか、どうしたいか、どこが糸口になればちょっとでも変化がありそうな感じなの?そういうのは全然ないの?
うーん、自立まではいかなくても、助成金とかで補える可能性があれば、会社を辞めてちみちの活動に専念できるかなぁ!?という思いは半分くらい頭にあるかな。(中途半端でどちらにも迷惑をかけている状況から抜け出したいという気持ち)
−NPOの存在価値ってすごく高くて、ある意味公的役割を担っているのに、周囲の認知度がまだまだ低く、やっぱりそれだけでやっていくのは難しい状況じゃないですか。そういうのを変えていけたらいいですよね。
そうですね。変えていけて、人件費という経費が出るのが当たり前っていう考え方が理解されるといいんだけど。まだボランティア団体みたいな認識が世間一般であって、「なんだ、あの人たち給料もらってんの?」みたいに言われたりするじゃないですか。ちゃんとやることやればいいから、「給料もらってんの?」って言われてもいいんですけどね。していることの対価としてきちんと給与がでるようになればいいと思います。
家庭の事情が理事になったときとずいぶん変わってきていますから。
−状況が大きく変わってしまいましたもんね。
状況がこんなに変わるとは、自分でも予想もしてなかったので。
−でも、それによって生き方を見つめ直したりとか…
そうですね、実はそうなってますね。
−そう考えるとすごいですね。
すごいですね、なんかね〜(笑)。
−住田さんの置かれている状況は大変厳しいと思いますが、そんな中でも、これから「ちみち」でどんなことをしていきたいと考えていらっしゃいますか?
やっぱり自立できるNPOにしていきたいですよね。自立というのはもちろん助成金、寄付などさまざまな方法があると、この頃は考えられるようになってきました。その中で自分がやりたいことが出来たらいいかな。
−そのやりたいことというのは、具体的に何かありますか?
実は、私がもっとみんなに広めていきたいことのひとつに、コンサートや舞台があるんです。日本ではなかなか、音楽などの芸術だけで食べていける人は少ないじゃないですか。だから、音楽をやっている人たちが、いいものを創りながらでも生活していけるような形を作っていけたらいいな、とは思うんですけどね。いつも甘いと言われます。支えるには「お金」がいると…!!!でもまぁ夢はおっきくね。
(後日談:このインタビューを受けた頃、アルバイトをしたりして生活を支えながら自分のやりたい事を続けていく生き方もありだと思うようになりました。「支えたい」なんて言ってましたが、おこがましいので、「応援する」に変わってきました(笑)。)
とりあえず自分の周りから。自分の周りにも、音楽を一生懸命やってる子どもたちがいっぱいいるんですよ。でも今見ていると、その子たちが実際音楽をずっとやっていけてるかといったらほとんど無に近い状況で、せっかくいいものを持ってても、それを表現できるような環境がないんです。
−そういう子供たちや若い人を草の根レベルからからサポートできるような、コンサートで自分のパフォーマンスを表現できる場所を作っていければと?
作っていきたいなとは思ってますね。まぁ夢の夢ですが(笑)。
−いやぁ、素敵な夢じゃないですか。
では、住田さんにとって「ちみち」はどんな存在ですか?
今はやっぱり、自分が生きていく糧ですよね、気持ちの上で。ちみちの活動をしてなかったら、どっかで荒れてたり、消えてなくなろうと思ってたかもしれないから(笑)。
でも、他のメンバーもそれぞれみんな結構辛くて、だから簡単に抜けられないなっていう思いは常にあります。
−状況は厳しくとも「みちくさ小道」を通じていろいろなことがいい方向に向かってるんじゃないかと思うんですが…。
うーん、そうですかね。今本当にいろいろなことが形に見えてきたので、頑張っていこうかなって思い始めています。
−もうやらされてる感は?
なくなったかな。腹をくくるのは自分で、誰のためでも、誰のせいでもない。
いつも最後に決断しているのは自分だと言い聞かせています。
そうすれば、誰かのせいにして逃げることはできないから(笑)。
−それだけでもすごい進歩じゃないですか!
ねぇ〜大進歩ですね。
それでも何かと言い訳を探している自分がいるのも確かですけど…。
−市の反応についてはいかがですか?こちらもいい方向に向かってますか?
最初は本当に「何やってるの?」って感じでしたが、ここのところ私たちの活動の形が見えてきて、すごく協力的だと感じます。行政マンも個人的にはやりたいっていう想いの人がいっぱいいるのですが、立場上難しかったりします。だけど、個人としてやってくれるっていうのは本当に嬉しいし、感謝しています。
−そういう方たちとも協同して発展していけたらいいですね!
その通りです。
−この前の市役所訪問(2010年1月)でそういう未来は見えたんじゃないですか?
はい、見えましたよね!本当、見えました(笑)。
−それは大きいですよね。
大きいです。今回のこの研修は本当大きかったなって思います。
−ちょっとした積み重ねで様々な状況が変わっていくと思いますよ。
長いこと長いことずーっと自分のしていることが何なのかみえなかったのですが、ここのところ少しずつ芽がでてきたのかぁ?って感じられるようになってきました。
それは自分の周りに暮らす人達の、何気なく交わす言葉だったり!笑顔だったり!輝きだったり!
−何気ないところから「芽」を感じられるくらい、「ちみち」の活動が周りの人たちに浸透しているんですね。すばらしいです。
「ちみち」を始める前と後では出会う人の数というのに変化はありますか?
全く違うと思います。いろいろな研修や企画に参加させていただくだけで、出会いは計り知れないほど多くなっています。とても感謝しています。
−人と話すのが苦手とおっしゃっていましたが、人と出会う機会が増えたことでそれは変わりましたか?
本当に苦手なんですけど(笑)。でもまぁ一応人の前で話さなければならない機会が観光連盟とか観光プロジェクトの中で出てきたので、ちょっとは進歩したかなと思います。
−ちょっとずつでも進歩していけたら素敵なことだと思います。
では、話を変えます。住田さんから見る加藤さんとは、どんな女性ですか?
ああ…シャーマン(笑)!?
彼女は本当に尊敬とかそんな言葉では言い表せないですね。
みなさんにはきっと目立つところとか、華やかなところばかりが見えてるんだと思うんですけど。私は、いいところも悪いこところもたくさん見てきたし、裏の部分を一緒にすごしてきてるから。それが損なのか得なのかはわからないけど。
まぁ「みんなが思うほど簡単にここまできてないよ」っていうのはありますよね。
彼女にはすごく強い突破力があると思います。
それについていかずにはいられない何か…(笑)が、私をよんでいる〜!!!
勉強家だし努力もしています。人知れず枕も濡らしています…(笑)。
−活動をしていく上で、ちゃんとそういう部分を知っている人が近くにいるって大切なことですよね。
そうですね。お互いね。加藤さんには、私の中をいろいろとついさらけ出してしまうんです(笑)。他の人には、自分をさらけ出すとか自分の中を見られるとか、すごく嫌なんですけど。面倒くさい奴でごめんない!オードリー(加藤さんの愛称)!
−ご自身はどういうふうに変わっていってると思いますか?
うーん、たぶん変わってはないんだろうけど、変わっていかなきゃなっていう風に意識したということでしょうか。
−それは最近なんですよね?
本当に最近ですね。香川に行ったのがいつだったかな?
(加藤さん)12月に香川に行ったことで大きく変わったよね。
まちあるきをして、夜も3次会4次会まで行って。あれは大きかったよね。
私たち飲み会嫌いでしたから…
私たちはああいうことには一切参加しないタイプだったんです。「お酒の席で言ったことなんて信用できないし」、みたいな…。でも参加したことで鶴田さんが少年だってわかったしね(笑)。鶴田さん、失礼をお許し下さい。
「人は一緒に食事をして、お酒を飲んで、本音で語れる」なんて基本的な事に今さら気付くおっちょこちょいです。これからはどんどん飲むぞ〜!!!って、怖すぎですね(笑)。
(加藤さん)それが一番大きな変化やね。
かもしれない。「オンパクなんて胡散臭いし、もう加藤さん変な宗教団体にはまったんじゃないか」と思ってたのに(笑)、今まで胡散臭かった部分が全部自分に落ちてきたので。
−それからまだ1ヶ月、なんですね。
そうですね。やっぱり加藤さんと一緒に行動してるといろいろなことが見えて、やってることの表面じゃない部分が見えてくるようになりました。だから、「参加しなきゃいけない!」って思ってます。
なるべく全てのことに参加したいと思うのだけれど、自分の経済的なことを考えると、本業の仕事にも行かなきゃいけないしっていうのもあって…。そこらへんがまだまだ自分に覚悟が出来てないんですよね。
−ジレンマですね。
そうです。それがいつ…納得し、腹がくくれるのか(笑)。
−先ほど、本業と「ちみち」の比率が7対3っておっしゃってたんですけど、一週間でいうとどういうスケジュールなんですか?
一週間でいうと、基本的には月から土までは、朝8時半から17時まで本業の仕事ですが、現在は残業のため、夜19時まで仕事をしています。
その合間をぬって、どのくらいかな? 昼休みはなるべく、ちみちで! 何かある時はちみちに参加しようという感じです。ごはんをここで食べながらMTGに参加したりとか。
(スケジュール帳を見せていただきながら)でも結構これだけちみちのことが入ってるんですよ。3て言ったけど、それより多いかもしれないですね。
(加藤さん)あえて本業から抜けられないのは何で?
それは、安定してるからです。
(加藤さん)辞めるとどうなの?
辞めると? 辞めちゃったらもう仕方ないですよね。でも今の状況で行ったり来たりしてると、迷惑がかかるのも確かで…。私がいつ欠勤するのか?突然抜ける!とかが当てにされている時は特に。
−「安定」が占める割合は大きいと思うんですけど、
はい、大きいです。
−でも自分の人生は1度しかないから、私は好きなことをしてもいいんじゃないかと思うんですよ。自分がどうしたいかで決めないと絶対後悔するし、自分もしんどいしと思うので。すみません、学生の分際で偉そうなことを言ってしまって。
まぁ会社を辞めて、「ちみち」で3年なら3年の助成金が出たりしたらどうかなぁとは思うんですけどね。でもその先が…って言ってたら何にも出来ないですね。
(加藤さん)やっぱ仕事的に本業の方が慣れてるっていうのもあるよね?
そりゃ楽ですよ。
(加藤さん)こっちは一から自分で組み立てていかないといけんしね。
それはありますね、楽ですよね。慣れてるから、今のままやっていけばっていう。
−人生の分岐点を迎えてるという感じですね。
そうですね、分岐点ですね。どうしていけばいいのか本当に…。
−どうしたら抜け出せますかね?
本当にね。今のままじゃどっちも中途半端ですよね。
−でも気持ちは「ちみち」にあるんですよね?
はい、気持ちとしてはこっちに関わっていきたいっていうのはあります。
−「ちみち」の活動は悩ましい存在ですね。出会わなければ今までの生活でも…
そう、割り切っちゃってね。もう仕事は仕事としてやっていけたんだけども。
−出会わなかった生活と、この悩ましい状況を比較するとどうですか?
やっぱり関わってみてよかったなぁという部分はありますか?
関わってよかったとは思いますね。だからこそ気が付いたことはいっぱいあるし。
本当はこっちでやりたいけれども、今の状況がなかなか厳しいので。
そこが自分に覚悟がないとこですよね。覚悟です…結局は、すべて自分の覚悟です。
−本職とNPOをこなしながら、ちみちのほうを頑張ってもっと大きくしようというお気持ちは?
そういう気持ちはあります。ちみちを自立できるようにして、こっちで私自身も経済的に自立できたらいいなっていうのはあるんだけど…。
−あるけど?
あるんだけど、実際問題今の状況ではやっぱり厳しいですね。
−プログラムを通して、地域や人が育ち、輝いている姿を見る時は日々のことを忘れられて…
そうそうそう。やってるときは忘れるし、現場は楽しいです。でも家に帰れば現実をつきつけられますよね。
自分の本来業務の方に行けば、途中で抜ける自分は他の人に迷惑かけてるなというのがあるし。そういう時、「あぁ本当中途半端!!!」と思いますね。
最近本当向こうの仕事とこっちの仕事でほとんど主婦ができてないような状況で。
笑ってる場合ではないかもしれないです…(笑)。
−心休まる時間っていうのは…
なかなか厳しいですね。時々「あー」っと叫んで、「わあー」って泣きたいときもあるけど、それが出来ないですから。それが出来たら楽かもしれないですね。
本当に中途半端だから、加藤さんにも申し訳ないなと思っています。
−少しずつでも状況が変わっていったらいいですね。
そうですね。しょうがないですよね〜人生の中にはこんな時もあるかな。
今まで本当に世間知らずで、のほほんとぼんやり生きてきたから。
実は私、リクルートの出身なんですけど、最近リクルートの人と仕事をする機会が多かったりすると、「ああみんな自立してるよな」って思うんです。東京に帰ってリクルートの同期の子たちと会うと、みんなやっぱりバリバリなんです。そういう姿を見ると、「ああ自分だけ何やってるんだろう」って思ったりもします。
−そんなことないですよ!住田さんは、なかなか普通の人ができないことを両立されてると思います。
いろいろな、なかなか普通出来ない経験!?をさせてもらっています。
−本職もNPOの仕事もこなすというのは、すごいと思います。
あっちもこっちも中途半端やってて申し訳ないなっていつも思います。
−悩んでる住田さんは格好いいですよ。
ありがとうございます。そうですね、こんな時もありますよね!まぁきっといつかは楽になる!これだけ苦しいと、楽になったときすごい楽かもしれないですよね。ハハハ。
人の心は毎日変わる、揺れる、動く。それは当たり前のこと。揺れてぶれたら、また中心に戻るよう修正すればいい、または思いっきり倒れて壊れてしまうのもありかも…。などと支離滅裂。考えすぎずに生きようと思いながら、日々こんなことを考えています。
背中を押し、手を差し伸べてくれる加藤さんに甘え、周囲のみなさんに多大なご迷惑をおかけしているかも…!!!それでも「ちみち」が受け入れてくれるので頑張りたいです。
−一緒に頑張っていきましょうね!
よろしくお願いします。ありがとうございました。
−こちらこそ、よろしくお願いします。ありがとうございました。
(インタビューをした個人的な感想)
ちみちの活動に100%の力を注ぎたくても現実は…という厳しい状況の中、悩み、ジレンマと葛藤しながらも、日々何足ものわらじをはいて頑張っていらっしゃる住田さん。そんな中でも「人生こんなときもあるよね」と前向きに考えようとしていらっしゃる姿に胸を打たれ、本当に格好いいと思いました。
今どうすれば一番いいのか、何が一番いいのか私にはわからないけれど、少しずつでも状況が変わり、いつか光がみえることを願ってやみません。応援しています!
- 2010/04/07(水) 09:29:01|
- オンパク 運営組織
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岡山県総社市でオンパク事業「みちくさ小道」を手掛けている加藤せい子さん
NPO法人 吉備野工房 ちみち 理事長
加藤 せい子さん

今回は、岡山県総社市でオンパク手法を使って幅広い地域づくり・人材育成に励まれているNPO法人 吉備野工房ちみち の 加藤せい子さんにお話を伺いました。
このインタビューは、平成22年1月16日に吉備野工房ちみちで立命館アジア太平洋大学4回生の石田奈々が行いました。
−NPO法人吉備野工房ちみち設立の経緯を教えて下さい。
1997年に、酒鬼薔薇聖斗事件という、子どもを殺害してその首を小学校に置くという事件があったのを聞いてすごく衝撃を受けました。その時、世の中の風潮は、バブルがはじけて混沌としていました。大人達が子どもの無気力とか、無感動とか、無関心をすごく批判して、テレビなどの色々なメディアや周りが、子ども達が悪いんじゃないかっていって評論しているのを聞いた時、なんだか大人達が評論家になりすぎていて、「大人が本当に汗をかいたり、子供たちに背中を見せたりしているんだろうか?」というのを自分自身がすごく感じたんです。
それで、「そう言っている自分は、じゃあどうなんだろうか、私の娘にちゃんと背中を見せているんだろうか?」っていうのを自分に問うたんですね。その時、やっぱり自分もどこか安堵の中にいて、自分が出来ることだけをして、その中で子どものことをああだこうだって言っている自分に気付いたんです。
そこで、「やっぱり何かやろう、やらないといけない!」っていう気持ちが心の中にわいてきて、住田さんと守屋さんという、子どもが同級生のお母さんに「私たちも何かやろうよ!」って声をかけました。
【音楽コンサートの企画】
それから半年ぐらいは3人集まっては議論をして、「こうだよね、ああだよね…」って言ってたんですけど、「やっぱりなんかやらんといけんよね!」ということになり、私たちが好きな音楽を通して地域に発信をしていこうということで、音楽コンサートを企画しました。何もわからなかったんですが、岡山音響というプロモーションの企画会社の責任者の人と出会うチャンスをもらった時に相談をしたら、「アカペラのコンサートをやってみたら?費用もそんなに高くないから。」という提案をもらったんです。そのころアカペラっていうのはまだ日本でもそんなにポピュラーではなくて。テレビでアカペラの番組が始まるちょっと前に私たちはそれをやることになったので、やると決めてから色んな人に相談しました。
ただ大半のみなさんが心配してくださって、「アカペラなんか絶対2時間もたん」、「お客が入らん」、「総社でプロのコンサートをして成功したためしがない」と言われました。そういうことも含めて、いろんなことをアドバイスとしてもらったんだけど、もうこっちが縮こまっちゃって。プロモーターの方に「辞めたい」というような相談をした時に、カツンとやられました。「そんなんじゃいけない!」、「責任持って最後までしなさい!」って言われました。それで、また主要メンバーの3人で集まって、「どうする?赤字が出ても大丈夫?腹をくくれる?」って確認して、「やろう!ここまできたらやろう!」ということでやったんです。
コンサートを企画して、ちらしを作って、発送して…本番1ヶ月前になってもチケットが100枚しか売れてなくて、「どうしようか?」っていう状況になりました。本番2週間前でも200枚とか300枚しか売れてなかったんです。私、本当に悩んで、もし赤字が出たら80万だ90万だっていうのを頭で計算するじゃないですか。そうすると、初めての大きなイベントだし、怖くなって、寝られなくなったんです。そんな私を見た娘が、私の枕元に手紙を書いてくれました。「ママ大丈夫?前向きに頑張れば絶対うまくいくから。」という娘からの手紙を見て、なんかふっとふっきれたんです。
「失敗しても命までとられんし、赤字は払えばいい。それまで、精一杯やろう。どんな結果が出ても、精一杯やろう!」と開き直ってから、いろんな人と出会うようになりました。
−娘さんの一言が大きかったんですね。
本当にそうです。それで私がこうやって子ども達のためにっていうことを語っていたら、なんかよくわからないけど、とりあえずその熱意に応援をしてやろうっていう人がぽつぽつと現れて…本当に1枚1枚を手売りしていったんです。
それで、蓋を開けたら、みんなが「絶対成功せんやろう。」と言っていたのに、1500枚近く売れていました。「それでも800ぐらいしか入らんよ。みんな、たぶん付き合いで買っとるから…」と言われていたんですが、本番では1200人くらい入って、通路までお客さんが座っていました。
結果じゃない、私が何ヶ月で何をしたかっていうプロセスがすごく大事で、結果はもう私の中で吹っ飛んでいました。吹っ飛んだというか、重要じゃなかった。最初は結果にすごく囚われていて、収支が合うこととか、人が入ることが大切だと思っていたんだけど、そのプロセスの中で出会っていく人たちや経験がどれだけ尊いかっていうことを、自分自身が、そのコンサートで感じ取ることが出来ました。
【周囲の認識の変化】
それで、それを見た地域の人たちが私たちにびっくりしてたんですけど、ちゃんとやれたという認識が出来たので、いろんなところから声がかかるようになって。「こういうのがあるんだけど、一緒にやらないか?」って誘ってもらえるようになりました。そこから地域に出て行けるようになって、イベント企画をすることを繰り返していきました。
5年間くらい、毎年そういうイベント、コンサートをしていたんですが、だいたい満席状態になるのと、値段の割に内容が良いということでご好評いただいていました。10000円で10000円の内容だったら当たり前だけど、2000円だけど10000円くらいの内容だと価値があると、誉めてもらえました。それと併せて、だんだんやっていることが明確になっていき、地域でも私たちの存在が見えてきました。
【まちづくりに対する違和感】
そんなことをしているうちに地域活動に入っていくようになって。その中で、やっぱり男性と年配の方がまちを作っていて、まちをつくる意思決定権の中には女性、私たちのような少し年齢が若い女性が少ないなというのをすごい感じました。「これってやっぱりおかしいよな…」と思って、ジェンダー、男女雇用参画の勉強をしたり、コーディネーターやファシリテーテーが必要だということで、そういう勉強も、同時進行でしたりしていきました。
そんな風に時が流れていく中で、れとろーどというイベントを5年前に始めたんです。それも本当に楽しくて、アイディアが湧きあがってくるというか。仲間と一緒にやることが本当に楽しくて、また、ものを作る喜びを得たんですけども、それをやり始めたら、どんどんあっちにもこっちにも呼ばれるようになって。ボランティアなのか仕事なのかわからなくなったんです、別に仕事もしていたんでね。
※れとろーど:門前町として栄えた総社商店街を未来に受け継ぎたいと、総社商店街の宮筋から神が辻の間で、写真や絵画、彫刻、生け花などの展示、お茶席、街かどミニコンサートなどが行われるイベント。2005年から毎年、秋に開催されている。
−当時はどんなお仕事をされていたんですか?
えーっと、市の嘱託職員を。子育てもして、ボランティアもしてという中で、なんかもうそれこそハレーション気味になっていて。そろそろ整理をしたいと考えていました。行政の人は仕事でその場にいる、私たちはわざわざ時間を作ってその場にいる。このバランスの悪さもすごく感じていました。本当にボランティアではなく、事業型NPO、事業として、仕事として、今やっていることができたらいいなぁと感じていました。それで、3年前から、まちづくりの講演会に行くようになったんです。
【NPO法人ハットウ・オンパクとの出会い】
その時に、(NPO法人ハットウ・オンパク代表理事の)鶴田さんの講演会に誘われて行きました。そこでオンパクの話を聞いたんだけど、やっぱり「ああ温泉の話だなぁ」っていうのが第一印象で、「まあ、私にはあんまり関係ないかなぁ…」という感じでした。でも、鶴田さんの誠意ってものはすごく感じたんですね。すごいスマートだし、謙虚だし、紳士だなぁっていう風に感じて。それだけは残っていたけれど、もうハットウ・オンパクなんかどっかに(笑)…。どっかにというか、自分の記憶にはもうなくて。それでも模索しながらいろんな講演会に参加したりとか、LLPやLLCという勉強もしたり。「事業体は、株式がいいのかな、有限がいいのかな?」という妄想状態でした。
※LLP:有限責任事業組合(LLP)と有限責任会社(LLC)の特長は以下の3つ。
1)有限責任制:構成員全員が出資額を限度に有限責任を負う。
2)構成員課税(パス・スルー課税)が適用され、出資者に直接課税される。
3)出資者自らが経営(組織運営)をするので、利益配分を始め組織内部の取決めは出資比率に依らずに、組合員の合意で株式会社よりも自由に決められる。
有限責任事業組合(LLP:Limited Liability Partnership)は、経済産業省所管の「有限責任事業組合契約法案」により設立が認められる組織形態。特許や技術或いはノウハウがあるのに資金が不足している技術者や、特許を取得した大学教授が、組織力と資金力がある大企業と対等に事業を進める際に活用出来る。
LLPでは、任意組合が負う無限責任では無く、株式会社と同様に出資額を限度にした有限責任に留まる。LLPの組合員の間での利益配分は、出資比率に応じる必要もない。また、LLPには「法人格」がない。従ってLLPの段階での法人課税はされずに、利益配分を受けた出資者が、出資形態に応じて個別に税金を支払う。
LLC:有限責任会社(LLC:Limited Liability Company)は、法務省の会社法改正により利用可能になった組織形態。
上記の有限責任事業組合(LLP)とは異なり、有限責任会社(LLC)には「法人格」が認められている。従ってLLC自体に課税される可能性があり、結果的にLLCの段階と出資者(社)の段階とで二重課税が生じる恐れがある。またLLCは法人格を持つが故に、株式会社、合名会社並びに合資会社との合併等による組織改変が可能。
(有限責任会社(LLC)・有限責任組合(LLP)について
http://www.hirakawa-tax.co.jp/tokusyu/llpllc/index.html)
それで半年後に、またなぜか(NPO法人ハットウ・オンパク運営理事の)野上さんに会う機会があって。それも、朝電話がかかってきて、「野上さんという方が来られるんだけど、ちょっと人が居ないから話を聞きに来て。」と誘われて、「誘われたら断れないな…」ぐらいの気持ちで、また話を聞きに行ったんです。
前よりは少し具体的な話だったので、れとろーどをやっていくことでまちづくりに繋がっていくのかなぁって、なんとなく漠然とした雰囲気をつかんだ感じになりました。でも、まだなんとなく「オンパクは温泉の話だなぁ、温泉があるから出来る仕組みなのかなぁ…」という風に思っていました。そんなこんなしていたら、2ヵ月後は、なぜか知らないですが、別府に行っていました(笑)。気が付けば、別府の地にいたんです。
そこで、第1回のオンパクの研修に参加をしました。研修に参加をして、鉄輪を歩いたんですけど、「あ、なんか地元総社でもできるかな?」っていうのは、自分が体験して、体験した人たちの話を聞いて、思いましたね。
【NPO立ち上げへ】
そこで野上さんと話した時に、「ハンズオン支援をしましょう。」という話になりました。まだその時は任意団体だったので、「どうしましょうか?」という相談をしたら、「NPOがやっぱりいんじゃないかな?」ということで、NPOを立ち上げる準備をしました。立ち上げる準備と同時に、私たちはお金がないということで、国の事業をとっていくということも進めていきました。その時(2007年当時、ハットウ・オンパクでインターンをしていた)森君が支援してくれたんです。ずっと伴走してくれて、支えてくれたのは、やっぱりすごい大きかったですね。ちょっと上手くいえないんだけど、なにをしてくれる訳じゃなくって、でもなんかのときにはいつも背中を押してくれていました。
※ハンズオン支援:オンパク事業を行ってきたハットウ・オンパクのスタッフが現地に赴きハンズオン型で地域のオンパク立ち上げを支援すること。
(JAPAN ONPAKU http://japan.onpaku.jp/start.html、オンパク(地域の輝き見本市)人づくり事業 http://www.coara.or.jp/~sanken/onpaku_doc/brochure.pdf)
NPOの申請の書類は、もう一人の事務の方と2人でずっと作っていたんですけど、申請直前に、ストレスと、初めてのことで心労も重なって、私の腕の中で彼女が倒れちゃって。救急車を呼んで、病院に行って、病院から帰ってきて、森君に電話をしました。「もうこれで出来ない。」と私は思いました。時間もないし、国の事業を出すための前倒しならもうあと1週間しかないという状況の中で、彼女が倒れたので。彼女がずっと書類を書いてくれていて、私はそれを読んでアドバイスしていただけだったから、「ああもう無理。森君、たぶんもう無理だと思う。」って電話したんです。そしたら一言、「せい子さん、やるしかないでしょう!」と言われて、「わかりました…。やるしかないか!?」って電話を切って、書類を貰い自分で最後の仕上げをして、県に提出しに行って出来ました。という、そんなすごいことがあって、申請は受理されました。
今度は、国の事業の書類をまた書きました。書いている時は申請を出しさえしたらいいと言われたんですけど、いざ出そうと思った3日前か4日前に、「これじゃあ受理出来ません。」って言われて。「うそでしょう?」と、その時は悔しくて泣けました。しかし諦めるわけにはいかないと思い、いろいろな方法を模索して、結局色々なネットワークの中ですべてが整い出来ました。そういういろんなことがありながら、吉備野工房ちみちというNPOが出来たんです。
−すごい経緯があったんですね。
では、オンパクの手法を初めて知ったのは、研修で別府に行った時ですか?
そうです。鶴田さんの話を聞いて、野上さんの話を聞いて、そして、最後はその現場に行って理解しました。
でも、当時のことを振り返ると本当に不思議で…。自分で動いていたんだと思うのですが、自分の意志とは別の力が働いて、クレーンみたいなもので運ばれた感じがしています。
−別府に来て、鉄輪のまちあるきや体験者の話を聞いて、自分たちのまちでもオンパクの手法を使ってまちづくりが出来るという風に思われたのはなぜですか?
うーん、まだ、やっぱりわからないけど、なんかできるんじゃないかなって。ある意味、直感かな。たぶん野上さんたちもそのへんは試行錯誤だったのかもしれません。
でも、人づくりっていうのは出来るかなという風には感じました。
−大変なことが起こりながらもNPOを設立し、実際に運営されてきたと思うんですが、初めの頃、周りの反応というのはどうでしたか?
冷ややか。それこそ、「えー」って。「オンパクの手法を真似ても…あそこには温泉という大きな地域資源があるから出来る。だから、総社では無理だ。」という風に、何度も言われました。
−当時はだいたいどれくらいの仲間がいたんですか?
ボランティアをやっていた人とか、現在もスタッフでいる山田さんとか住田さんとか、全部で10人位いたよね。だけど、スタッフにも「NPO法人化はもう辞めた方がいい。」、「もう無理、無謀だ。」って言われました。だけど、「出来る」って思ったから、私はもう無理しました。強制的にというか、やりたかったんです。自分の「直感」を信じてやってみたかったんです。「直感」っていうのは、「思いつき」という意味じゃなくって、普段から一生懸命考えて、資源をいっぱい頭に入れて、それが何かと結びついた時に「直感」で行動するという意味で、ちゃんと裏づけがある上でということです。その「直感」を信じて、それからどうするかっていう判断をしてもいいかなぁとは思いましたよね。
−みちくさ小道をやることになって、実際にプログラムを作ってみられたんですよね?
そうです。その時に森君が来てくれたり、ハットウ・オンパクのスタッフの末田さんや門脇さんが来てくれたり。あれは大きかったですよね。
やっぱりプログラムの名前を作ったりする方法がわかんないじゃないですか。タイトルが面白いとか、キュートとか、そういうのがわからなかったので、来てくださって本当に有難かったです。
−一から始めるのは大変ではなかったですか?
資源はあったし、ネットワークはあったので…この人とこの人を結ぶとか、この場所とこれをこうするっていう計画はあったんですよ。
−じゃあそれを実際に形にしていくという感じですか?
そうですね、はい。
−反対していた人が注目してくれるようになったのは、どのあたりからですか?
3回目(2009年秋のみちくさ小道)の25プログラムをやり始めてからかな。
25プログラムも無謀だと言われてたんですけどね。
最初(2008年秋)が14プログラムだったんですけど、それもぱっと見た時、「これ出来るん?」という感じでしたね。1年目のあの頃はすごい孤独でした。
−それでも1年目に14プログラムを実施されましたよね?
なんで「出来ない」って言われてたんですか?それは準備の段階で言われたんですか?
そうですね。準備では、やっぱり全体像が見えない。私も見えないことが説明できなかった。みんなは、私が見えないものはもっと見えないから、それ以上じゃないですか。不安しかなくて、それを解消する言葉が私にはなくって。とりあえずやることでしか解消できないと思ったから、頑張りました。だから、終わるまでの孤独感ていうのはすごかったかなぁ。それを森君がよく聞いてくれたのは大きかったなぁと思います。
−第1回目の「みちくさ小道」が終わった後、周りの変化というのはありましたか?
ありました。やっぱり14プログラムをやり遂げたということと、八十八ヶ所巡りのプログラムなどは形が見えたから、「こういう資源の活かし方が出来るんだなぁ」ということを、周囲のみなさんも自分自身も感じることが出来ました。
それと、講師の方が周りの方に『感動』を伝えてくれることが、大きいですね。そこが第一段階で、周りの人々も「別府じゃないところでもできるんだなぁ…」ってなんとなく感じてくださったみたいです。

「吉備野八十八か所めぐり」の模様
−では、第2回目の「みちくさ小道」が終わった時の変化はどうでしたか?
1回目のみちくさ小道を見た人が、「講師をやりたい!」と自分から申し出てくださったのは大きな変化ですね。「いつやるの?」という参加者の声もあったし、こういう地域資源の活かし方があるんだっていうのが行政の方にも理解されたんだと思います。ただのまちあるきとか、ただのイベントじゃなく、『人材育成』になっているっていうことをわかってくださったみたいです。
この前の(2009年秋の)25プログラムの時も、「出来ないだろう」と言われていたし、「この期間で、このプログラム本当に出来るん?」という周囲の心配の声が大きかったです。スタッフも、「出来るんかな、また無謀なことを…」って心配してました。
−加藤さん自身、心配はなかったんですか?
はい、なかったです。出来ると思っていましたよ。
−そう言いきれる加藤さんが素敵です。
では、「みちくさ小道」の立ち上げから第3回目が終わるまでの加藤さんの気持ちの変化はどのようなものでしたか?
1回目は不安で、でもやり遂げたいという気持ちでした。その時、実は、肩にカルシウムがたまって、高熱と激痛で肩が上がらず手が動かない、触っただけでも激痛がはしるという状態で。「休めないから、どうしよう…」って泣きながら、痛みと戦いながら、それでもやりました。
−そんな辛い中でもやり遂げて、どのように思われていますか?
やっぱり自信がついたかなと思います。これは「それでもあなたはやるんですか?」っていう自分への問いかけだと、自分で勝手に物語を作ったんです。本当に、産みの苦しみでしたけど、でも生まれた子どもはいい子でした(笑)。そう感じています。
−それは第2回目のモチベーションに繋がりましたか?
繋がりました。また、そこで新しいプログラムが8つも出来たからそれはよかったかなと思います。
−「みちくさ小道」を3回やってみての感想を教えてください。
「びっくり」、ですね。いろんなものに使えることを自分で実感したことが、本当に驚きです。ただのまちあるきとかイベントではなくて、男女共同参画にも使えるし、人材育成にも使えるし、商いのトライアルにもなるし、研修事業にもなるし、プロモーションにもなるし、使い方によって色々変化することに気づきました。
−パートナーさんの変化については、どのように感じられていますか?
最初私がお願いに行ったら、だいたい「無謀だ。」と言われてちょっとひかれるんだけど、私は何回も話しに行くんです。「こうはどうですか、こういうやり方だったらできるんじゃないですか?」っていう提案をしていく中で、最初は消極的で、紙の上でいつ何をしてこんなことが出来るっていう平面の会話なのが、話すことでだんだん立体になっていくのを感じます。それで、最後は一人歩きしてくれる、育っていくのを自分が感じるんです。
パートナーさんに会いに行ったら、勝手に地図が出来ていたり、本が出来ていたり、自分たちで研修会を組んでやっていたりっていう、すごい変化があります。そして最後は、お客さまが講師(パートナーさん)を育ててくれるんです。だから、パートナーさんがすごく良い顔をされているのを感じますね。
失敗しているプログラムは、やっぱりコミュニケーションができてないプログラムです。そういうプログラムは何か不満がある発言になります。「コミュニケーションは丁寧にやっていかないといけない」っていうのはスタッフに言っているんだけど、やっぱそこがまだまだ弱いかなという課題もあります。
−パートナーさんも何かしたいと思っているけれど、踏み出す機会がないことが多いですよね。その一歩をちみちのスタッフの人が押してくれるんでしょうね。
無理やりのほうが多いかもしれないですけど(笑)。
−ぽーんって背中を押してくれるから、入ってしまえば、そこからみんな開き直るという感じですか?
そうですね。
−「出来るんだ!」っていう…
自信になりますよね。
−自信につながって、始まってしまえば、何でもどんどんおもしろいものになっていきますよね。
背中を押す係が私たちの役割かなっていうのはすごく感じます。あとは、盛り上げてあげる。「大丈夫よ、出来るよ。」っていう話をすることと、不安なことは聞いて、私もできることはサポートするし、聞くことによって自分で勝手に解決してくださることもあるじゃないですか。そこのコミュケーションが一番大事かなぁと思います。
−多分、自分のチャレンジだと思ってくれる人たちがいるからこそプログラムが上手くいくんですよね。自分のチャレンジだと気づかない人たちっていうのもやっぱりいらっしゃいますか?
「やらされている。」という意識でいたり、「なんでこれしてくれないの?なんであれしてくれないの?」って言葉が聞こえてきたりするプログラムは、やっぱりうまくいかないですね。そこはスタッフもまだ育ってない部分もあるので、難しいところもあるけど、まあそれはそれかなぁっていう風に思います。
−そうですか。では、みちくさ小道が、地域で、現在どのような存在になっていると感じていらっしゃいますか?
まだまだ一部の人のものだから、もっと育てていきたいですね。地域よりも外の人たちの関心の方が今はまだ強いのかなって。外から見るほうが客観視できるのか、「なんかおもしろいことやっているね。」って言ってくださっています。
今まで、総社って通り過ぎるまちだったんですよ。ネットワークも倉敷からいきなり高梁にいったり、岡山から真庭にいったり、そんなイメージがすごくあったんだけど、最近は『総社』という形を少しわかってもらえたのかなぁと。他地域から「一緒にやりましょう!」という話がきたり、「おもしろい!」って言ってくださる人がいるので、そう感じています。
地域の中でどうか、地域の人たちがどう思っているかというのは、私も地域の中にいるのでまだまだ見えてこないんですけど、関わってくださっている人たちは変化をしてると思います。まだまだイベントにしか思ってもらえてないから、もう少しインキュベーションの場というのを伝えていく必要はあるかなぁと考えています。
−では、地域の人々の関わりを増やしていくことが、今後力をいれたい部分ですか?
そうですね。それはやるしかないし、やった人が変化をするものなので。
やっていく中で見えていく形でしか、なかなか相手には伝わらないじゃないですか。
何かをやりたい人が「みちくさ小道」と連携したいっていうのが地域からも出ているし、こんなプログラムをどうかっていうのもあるから、まあ少しずつやっていけたらなぁとは思っています。
−これから、NPO法人吉備野工房ちみちとしてどんな地域づくりをしていきたいとお考えですか?
「ここに住んでいてよかったなぁ」とみんなが思う地域になるようにしたいですね。去年は「耕す」というテーマで、今年は「種をまく」というテーマで活動をしてきました。来年は、種から芽がでて花が咲けばいいかなぁって。花が咲いた後に、また種が落ちてくれたら、また、そこから広がるじゃないですか。そういうイメージでまちづくりをしたいです。
だから、外からお客さんを呼ぶとかでなく、地域の中でまわるような仕組みを、経済にしても人にしても作っていきたいです。
−外から入ってくるというよりも、地域で始まって徐々に広がっていくということを目指しているということですか?
そうです。だから、内盛り?内から盛り上がるような地域にしていきたいです。「うちのまちってすばらしい!」って自信を持って言えるまちにしたいです。自分たちが愛する場所に総社がなればいいなって思ってます。そしてそこから繋がっていく、伝染していくようになればいいですね。
−話は変わりますが、みちくさ小道におけるプロモーション事業の場としての広がりについてはいかがお考えですか?
「みちくさ小道」をやることによって、今回パンフレットがオシャレだってすごく言ってもらって、デザインとか編集とか企画ができるということを認識してもらったんですね。それで県からレシピ集をつくるオファーがきたりしました。反対に自分たちも少し自信が持てたので、「冊子の仕事できますよ!」っていうことを自分たちでアピール出来るようになりました。
あと、コーディネーションという部分で、「25プログラムもコーディネートできるんだったら、吉備野工房ちみちにコーディネーションを任せられる!」とかっていうお話もきています。研修も話がくるようになっているかな。それはある意味、「みちくさ小道」というプロモーションの場があるからこういう色んな事業がきているのかなって思いますし、自分たちも自信になっています。
−すごく広がっていっているんですね。
なんかね、すごく広がっていっている気がします。
NPO法人の名前に、『吉備野』と名づけたのは、総社だけじゃないというイメージが私の中であったからなんです。同じ思いがあったらどんなところとでも繋がれるんじゃないかって思ってます。
だから、私たちができるのは行政区域だけじゃなくって。行政区なんて関係ないじゃないですか、NPOとしてはね。地域がよくなればいいので。だからここを中心に別府とも繋がるし、高梁とか新見とか真庭とか、四国とも繋がれるし、いろんな所と連携ができるかなぁって思っています。
−そういう構想もあるんですね。
そうです。構想ばっかり(笑)、妄想ばっかり(笑)。
香川や近畿、中国地方くらいはカバーして支部みたいなことができればいいなと妄想しています。それに、もうちょっと大学とか専門の方と連携したいです。吉備野工房ちみちの弱さが、実務というか、まだまだやることばっかりに追われているから、もう少し研究とかモデル開発になれたらと思います。そんな先生がいたら出会いたいなぁって思っています。
どう仕組みにしていくかが一番大事なんですけど。人材は揃っているし、ネットワークもあるから、それをどう繋げてやっていくか、ですね。まあでもやってみないとわからないから、次の人材研修でとりあえずやってみて、形にしていきたいです。私たちじゃなくって、その先にあるものを支援する仕組み、次世代のために使う仕組みを作りたいです。
あと、「みちくさ小道」をやったことによって、人の繋がりが出来ていったかなぁと思います。それで、メディアがすごく関心をもってくれているのと、彼らの「応援したい」という感じがとても伝わってきて、それが本当に嬉しいです。これも「みちくさ小道」のご縁だと思います。
−メディアに取り上げてもらえるとすごく大きいですよね。
大きいし、夕刊に「一日一題」っていうのを私が2ヶ月間連載したんだけど、それでまたちみちの信頼度が上がったのかなと思います。メディアにでるってことが、信頼に繋がるんですね。
−その連載がきたのも、やっぱり「みちくさ小道」実施からですよね?
はい、「みちくさ小道」です。だから全部「みちくさ小道」なんです。
事例発表もそうだし、来週、県の観光連盟でも発表させてもらうんですけど、誰に私の情報を聞いたんですかって聞くと、県の職員さんが話してくださってたり、推薦してくださったりしてるんですね。だから、「みちくさ小道」がご縁でどんどん広がる「みちくさ小道」という感じです。
−すばらしいですね。加藤さんの今の活動があるのも元々は「直感」ですけど、そこからのネットワークの広がりというか、ひとつひとつが濃い色々な出会いがあって、その人たちのサポートがあってという、その出会いがすごく魅力的ですね。
それも「直感」っていうか。五感を使うっていう「みちくさ小道」の意味を話したじゃないですか。現代の人たちはあまりにも頭とかデータとかで育っていて、多数決とかいいことだけに縛られているっていうのかな。でも、私の動きって、良いとか悪いとかじゃなくて、これが必要だとかこれがおもしろそうだとかっていう感覚です、ある意味。
でもその感覚が良くないって今まで言われていたのが、最近は時代が変わってきたのかな、もう1回感覚を取り戻そうという風潮になっています。
だから私はそこにちょうどマッチしたんだろうと思います。今までは妄想と暴走と瞑想とか、そういう風に言われていたんですよ。「あんた、何言よるかわからん」ってよく言われていました。何を言っても理解してもらえないのが怖かったし、しんどかった。だから言葉を発するのが怖かったんです。自分も何がやりたいかもわかってなくて、でも自分の中には何かやりたいという思いがすごくあって…。
−何がしたいか見えてきたのは「オンパク」との出会いがあったからでしょうか?
そうです。オンパクに出会うことによって、やりたいことがだんだん明確になっていって、自分の中の色んなものがそぎ落とされていきました。
−これからどんなことをやってみたいですか?
自分の中にないもの(笑)。未知に挑戦したいです。
人からの提案や、出来そうにないことをやっていきたいです(笑)。
−そこからまた広がっていけばいいですね。
そうなればいいかな。あんまり決めたら、枠の中ではまっちゃうので、おもしろいと思ったこととか、今自分に与えられているやらないといけないことに出会ったら、それをただ淡々とやっていきます。
【私の最終ミッション】
それと、子ども達が、私達の次の世代の人達が、少しでも楽しく暮らせる引継ぎはしたいと思っています。子ども達と一緒に悩んだり考えたりしたいなっていう思いもあります。
いつかは、発展途上の国に行って、オードリー・ヘップバーンがユニセフの支援に行った時みたいに、子ども達の支援をしたいです。
また、子ども達が、「生まれてきてよかったなぁ」とか、「ここに存在してよかったなぁ」と思えるように、そう思えるきっかけを届けたいなっていうのが最終ミッションです。
だから、今はそこにいくための助走かな。ここでがーっとお金が稼げるようになったら、発展途上国で子ども達の支援をしたいですね。
今、日本でも、お金・モノはあっても、心の飢餓とまではいかないかもしれないけど、精神的に飢えている子ども達がいる。だから、最終的なミッションとしては、国を問わず子ども達に関わる仕事をしたいと思っています。
私は兄妹が11人いるんですけど、小さい頃から「自分は存在しちゃいけない」ってずっと思っていました。母親が父親からDVを受けていて、母親のストレスが長女の私に暴力や言葉の暴力できていたんです。子どもって親に受け入れてもらって、自分の存在をわかる。要は、人間って他人からなんかしてもらうことで自分の輪郭がみえるっていうのがあって、そういうところで私は子どもの時から屈折したものがあるから、ずっと自分の存在を否定してきました。それがしんどかった。
もし、他にもそういう子ども達がいたら、どれだけしんどいかっていうのが私にはわかるじゃないですか。だから、貧乏でも、親がいなくても、「生まれていいんだよ、そこにいていいんだよ」っていうのを伝えることを、これから残された命を使ってやっていきたいと思います。
−色々な体験や苦労があって、今の加藤さんの取り組みに繋がっているんですね。今の「みちくさ小道」は加藤さんにとってどんな存在ですか?
次へのステップ、でしょうか。これで終わるんじゃなくて、それこそ目標ではなくって、ツールの一つでありながら、でも宝でもあるという感じです。
まちをつくっていくことは将来の子ども達のためになるから、自分達では全部出来ないけど、その担い手になれればいいかな。担い手というか、意思決定権の中に自分達が入っていって、リーダーの中でものが言えるようになれたらいいかなと思います。
経済的にも自立をしたい。だから、NPOで政策提言もしていきたいです。
今、地域の中に向かって具体的に一生懸命やっていっているけど、将来的にはNPOで政策提言をしていきたいと思っています。下請けとか行政のニッチな部分をやるばかりでなく、それをやりながら、「こういう問題があるから、こんな仕組みや政策、法律を作れば、もっとまちがよくなるんじゃないか」っていうところも考えて、提言するということもやっていきたいです。
−NPOの方が現場に近いから、住民の声をちゃんと反映できますよね。
【ちみちでの夢】
そうですね。でも声を反映するだけじゃなくって、具体的にこんなことが出来て、ここが変えられて、この法律をこうしたら…というところまでいきたいです。専門家と一緒に考えて提案して、それを地域で実際にやって、きちっと政策提言するっていうのがやっていきたいことです。
今の政治は、誰が責任をとるかが見えにくいと感じています。辞めたら、イコール責任をとるみたいな。でもそれってある意味無責任に感じて…。そういうところに政治や自分の人生や生活を任すことよりも、自分達でそれを考えてやって失敗するんだったら、自分が責任を取れますよね。だからそこを私たちが担っていく必要があるのかなっていう風にはちょっと思いますね。
JICA研修を受け入れた際に市長の話を聞いて思ったんですが、長っていうのは新しいことを考えてやっていくんだけど、下はなかなか受け入れがたいこともある。どうしても批判を受けるし、わからないから不安になったりもする。でも、長がこれをやるって言ったときにやっぱり必ず部下はついていくんだと。そのわからないものに向かっていくのがある意味「長」の役割なのかなぁって最近思っています。それに対しての反発や反論は、長は孤独だけど耐えて、我慢して、待つことも必要なんだなぁってすごく今思います。
あと、たくさんの人に「早く自立をしなさい。」、「経済的な自立をせんといけん。」て言われるんだけど、この前岡山県庁の人と話した時に、「国の補助とか県の補助をとるっていうこともひとつ自立の糸口だから、それを悪いとかではなくって、それも大切な自立の資源・事業として捉えればいいんじゃないか。しないとか分けて考える必要はないんじゃないかな。」っていうアドバイスをもらって、すごく楽になりました。
それまでは「自立せんといけん、自立せんといけん、自分達で自立できる事業を…」ということを考えてばかりいました。もちろんそれは必要だと思うけど、あんまりそこに囚われずに、とりあえず、今ある資金とか補助とかを使いながらやっていってもいいんかなぁと今は思っています。それによってきちんと成果や効果がでてくればいいんかなぁって。
この1年ぐらいは「お金の面で自立。」といろんな人に言われて、あるとき自立が目的になってしんどくなった時期もあったんだけど、でも自分達がお金の部分で自立するっていうのはちょっと違うんかなと最近思い始めています。国や県や色んな補助金を使いながらも、地域の人たちが元気になる活動をするのが本来の目的かなぁと思えるようになったから、楽になりました。
でもその辺がちょっとしんどい部分ですよね。事業やりながら、こっちでは次の資金を生み出してということを考えないといけないから。それがトップの仕事なら仕方ないんですけどね。
行政予算の何%かをNPOの運営に使えるような仕組みを作りたいなっていうのも今思っています。新たな地域機関として認知してももらって、要は行政(新たな公共)と一緒ですよね、「何%の予算はつけます」っていうようになれば、新しいことばっかりいつも考えなくてもいいのかなぁって思います。それに追われるとまた違うかなぁって。
−このあたりは難しいところですよね。
そうやってこれからも色んなことに挑戦されていこうとしてらっしゃるわけですが、いろんな活動を行う上で大切にしている気持ちなどはありますか?
私の今のテーマは「気が付けば」なんです。「みちくさ小道」もなんとなくやったら「気が付けば」ものが出来ていたり、人材育成になっていたり、ボランティアガイドが育成されていたり、それこそ環境問題にも取り組めるし。大上段に「環境問題をやりましょう」、「まちづくりをやりましょう」、「人材育成で何カリキュラムをして、終わったら修了書を出します」ではなくって、「気が付けば」なんか出来ていたという感じの方が受けるほうも楽でいいのかなって思ってます。ハードルが高いと勉強ばっかりでアップアップしますし。
私だって「気が付けば」です。それこそNPOを立ち上げる前、今から3年か4年前に、どうしたらいいかなって県の人に相談していた時、「地域プロデューサーになったらいいが!」って言われて、「え、地域プロデューサーなんてそんな仕事ないよ。」と思っていたんです。その時「そんなのあたしには無理。」って思ってたんですけど、そうやって言われて今、「気が付けば」地域プロデューサーに完璧になってますからね(笑)。肩書きをばあーっといわれると出来ないって思うけど、「気が付けば」なんかになっていたぐらいがいいのかなぁって。それが私のテーマです。
おもしろいのは、2年前、函館でオンパクの研修があった時、聞く側に私たちがいて、講師は男性ばかりでした。「あそこに女性がいない、講師の列に女性がいない!」と思いました。
で、いろいろ言われた時、もう悔しくって、海に向かって泣いて、研修をエスケープしました(笑)。その時「あそこに絶対女性がいないといけない!」っていうのを自分に誓ったんです。誓って、昨年(2009年)別府で行われた「こうさてん」というイベントでは、講師として事例発表を、今回(2010年)のオンパク研修でも講師として発表したので、少しずつでも一歩一歩、確実に、その時「足りない」と思ったことを実現しているかなと思っています。誰かがやってくれたら、誰かがなってくれたらと願うのですが、『気が付けば』自分がやっている状況です(笑)。
※こうさてん:2009年1月に別府で4日間に渡り行われた、まちづくりを考えるイベント。
(こうさてん イベント情報 泉まちネットhttp://www.city.beppu.oita.jp/machizkr/event/200901/15.html)
−第三者からみると加藤さんはなぜそこまで不可能と思えることを可能に出来るのかなと思うのですが、その原動力は何ですか?
自分には出来ないと思っていても、なんかやらんといけんような状況になったり、背中を押してくれたりするような人がいると、出来ないけどやってみていいかなと思います。
私も本当は出来ない、出来ない!みんなと一緒よ。
でも前向きは前向きです。出来るようになりたいと思うエネルギーは強いかもしれないですね。出来ない自分に対しての負けん気は強いので。
何でも出来るなって思われているけど、実は影で努力してるんですよ。言い訳はなるべくしないっていうのがもうひとつの私のテーマなので。
NPOのスタッフや地域の人たちには、本当に感謝です。私の無謀な行動によくついて来て、支えてくれたなっていうのは、なかなか言葉には出来ないけどいつも思っています。
有り難いし、本当感謝です。この場を借りて、「本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。」と伝えたいですね。
−最後に、オンパクやってみたい人へのメッセージをお願いします。
「とりあえずやろう!」(笑)しかないですよね。
オンパク手法には、やれるかもしれないという可能性があるのかなと思います。
−長時間ありがとうございました。
(インタビューをした個人的な感想)
「自分には出来ない、出来ない。」と言いながらも、その時足りないと思ったことを満たすよう確実に実現へと行動していらっしゃる加藤さん。
辛い過去を持ちながらもそれに屈さず、今、未来の子ども達へと日々尽力している姿は本当に格好よく、お話をお聞きした私自身、勇気と希望をいただきました!
今後もNPO法人吉備野工房ちみちの活動が総社にもっともっと新しい風を吹き込みますように、私も微力ながら応援させていただきたいと思います!これからもよろしくお願いします。
- 2010/03/18(木) 07:43:41|
- オンパク 運営組織
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