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佐土原 太志さん(都城まちづくり株式会社)

宮崎県都城市でオンパク事業「ボンパク(都城盆地博覧会)」を手掛けている佐土原 太志さん






都城まちづくり株式会社
佐土原 太志さん


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今回は、宮崎県都城市で「都城盆地博覧会(ボンパク)」を運営していらっしゃる佐土原さんにお話を伺いました。
このインタビューは、平成22年2月13日に都城ロイヤルホテルで立命館アジア太平洋大学4回生の石田奈々が行いました。



-現在のまちづくり会社に入る以前は何をされていたんですか?

まちづくり会社に入る29歳までは、遊んでいました。大学を6年で中退して、2年は大学のあった熊本にいて、1年間イギリスに行って、ヨーロッパのまちを回って帰ってきて、「さぁ、帰ってきたけど職がない!」という時にまちづくり会社の募集があったので応募しました。

-以前からまちづくりに興味はあったんですか?

興味は、ありました。父親が市役所の職員で、ワークショップで合意形成していくのが大好きだったんです。「地域の人たちとのワークショップは面白いぞ!」という話を中学校ぐらいから聞いていました。その頃、都城では、「ウエルネス都城」 というまちづくり活動が盛んでした。いつも、張り切って仕事に行く父の後姿を見て育ち、そんなに面白いものだったら僕もやってみたいなっていうのはありました。

-イギリスから帰国した時にまちづくり会社の募集があり、以前からまちづくりに興味があったので、たまたま応募されたということですか?

そうです。でも最初の選考では落ちました。一度落ちて、しばらく経ってから「面接受けませんか?」という連絡がきたんです。一人欠員ができて、その代わりに入ったので、いわゆる滑り込みですね。

-それで、まちづくりに携わるようになられたのですね。会社に入ったばかりの頃はどんな仕事をされていたのですか?

はじめは、ウエルネス交流プラザがオープンしたばっかりだったので、交流プラザの運営をしていました。でも、そこに僕は少し違和感がありました。「まちづくりって、中心市街地活性化という意味なのか?」という素朴な疑問があって、「この施設がにぎわえば、まちがにぎわう」という言葉が交わされている中、「なんかしっくりこないなぁ」と思っていました。“施設を運営して、まちなかを賑わす”、言葉と言葉の間にギャップがあって、“具体的に何をどうやっていくか”については誰も正解を知りませんでした。真剣に考えれば考えるほど「わからないなぁ」と思っていました。ただ、それまで遊んでいて社会的な役割を持たずにいたので、毎日いろんな人と話して、発見があることが嬉しい、楽しいという気持ちはありました。

-では、具体的にまちづくりをされるようになったきっかけは何ですか?

まちづくり会社に入った時に、僕の同級生のお母さんで、まちの元気なおばちゃんに出会いました。その方に、「あんた頑張りなさいよ。」、「まちづくり会社やったら靴を履き潰すぐらいまちなかを歩いて、人と会って話すんだよ。」と言ってもらって励まされました。「それって素晴らしいな」と思ったんです。でもなかなか施設の運営が落ち着かなくて、すぐ外には出られなかったんです。3年目になる時、まちなかの店舗の人たちが集まって勉強会をしていると聞き、説明会にどんな人が集まっているのか気になって顔を出したんです。

-その勉強会はまちなかの人がずっとされている取り組みですか?

その会は立ち上がって3年目を迎えるところでした。一店逸品運動という活動のための会です。実行委員会を作って、皆で商品開発をして、PRするというような事業だったんですが、事業のことを何にもよく知らずに説明会に行きました。その時、商工会議所の職員の方が「佐土原君のところも会に入れば?」と言うので、「そうですか。そんなこと出来ますか?じゃあ入りますか。」という流れになりました。
会社には、「商店街の人たちと一緒に商品をPRする事業で、まちなかの店舗とのつながりもできます。プラザもPRできるものを出せるでしょう。」という話をして、その事業に関わりだしました。関わりだして、色んな人たちを知りました。そして、次の年からはまちづくり会社が事務局を担うことになりました。


※一店逸品運動:参加店が会合(逸品研究会)を通じて、それぞれの逸品の開発や発掘を行い、「逸品フェア」というお披露目を定期的(年1回程度)に開催していく一連の活動。この運動を通じて、店主は常に自分の店舗や商品を見直すことになると共に、運動を続けることで繁盛店をつくり出し、また繁盛店を増やすことで商店街全体の活性化を図ろうとするもの。
(2007年10月vol.22 広報 都城10)

-一店逸品運動の事務局ですか?

最初、一店逸品運動は市役所の事業でしたが、補助金が予算化されている4年間で事務局を自立させたいという意図があったようです。会社の理念にも合致していて、ネットワークもできるということで、それまで市役所がやっていた事務局をまちづくり会社でやりはじめました。
最初は月1回の会議に出ればいいという話だったのですが、事務局は、準備もしなければいけないので、全然それだけでは収まらなかったです。ですから、入社3年目は事務局の業務をかなり一生懸命やったという感じです。

その中で、まちなかの商店の現状とか課題とか、やってはみたけど(商品が)売れない話とか、ちょっとうまくいった話とか、そういう話を聞きながら、「このままじゃ現状は突破できないよなぁ…」と思っていました。「やる気のある商店主に応えるものって何かなぁ?」と、役員会の人や仲良くなった店舗の人たちと色んな話をしていました。

-商店街の衰退化という現状をなんとかできないかということで、ご自身が色んな方とお話されながら方法を探されていたんですね。

4年目に入ったときに、市の中心市街地活性化室という私たちの施設の所管課にスーパー行政マンが来ました。もともと、まちづくり会社が管理しているプラザと駐車場を使って、会社を経営していく基礎を作った方が、また戻って来られたんです。ものすごく仕事が速くて、アイデアもいっぱい持っていて、昨日のアイデアが次の日には進化していました。考えるスピードが速すぎて、僕なんかもうついていけなくなってしまいました。その人の仕切る会議に商工会議所とかまちづくり会社が入っていましたが、いつも空転するんです。速すぎて僕の頭の中はぐるぐるってスピンしていました。

「中心市街地活性化についてどれだけのことが出来るのか?」と考えをめぐらせていた時、その行政マンが「本当に僕らが出来るの?」というプランを、「これは?これは?」とどんどん出してくださるんですけど、僕らはなかなかそのボールを取れずにいました。「自分たちでもこのままでいいとは思っていないけれど…」と悶々としていた時に、オンパクの研修会に行ったんです。

-どんなきっかけで研修会をお知りになったんですか?

きっかけは、オンパクの研修会を知る1年前にNPOや行政との協働のアドバイザーをされている川北秀人さん(IIHOE)の研修に宮崎で参加したことです。非営利団体の運営や、支援をする意味と方法について、理論的でスッキリした話をして頂いていました。川北さんが宮崎に来られる度に研修に参加して、研修から帰ったら、まわりのスタッフにこんな話を聞いてきたと興奮気味に報告して、稟議書の形式を変えたり、お客様へのアンケートのフォーム変えたり、事業計画書づくりに聞いてきた内容を生かしたりしていました。

-ご自分で探されて川北さんのお話を聞きに行かれていたんですか?

その研修会を主催されていた宮崎文化本舗の井上優さんに誘ってもらいました。井上さんから目をかけてもらって、機会があるごとに研修等に誘ってもらっていたんです。

-では川北さんのお話がきっかけで別府の研修会へ参加されるに至ったんでしょうか?

そうです。川北さんから、「別府のまちづくりは最高に面白いよ!市民がやっている活動がすごい!」といつもお薦めされているのを聞いていました。そしたら川北さんのブログでオンパクの研修会(2007年10月開催)があることを同僚の本蔵さんが見つけてくれました。でも、そのブログに書いてあるだけで、実際オンパクのホームページを調べても、肝心の研修会の情報は書かれていなかったので、電話をしました。別府のオンパクの事務局の方も意外だったようでしたが、参加申込みをしました。その頃、別府の方々は観光地に声をかけられていたので、都城から来るとは誰も予想していなかったんじゃないですかね。「別府で何が起きているのだろう?」という疑問と、川北さんが太鼓判を押す「別府で、何が起こるのか見てみたい!」という思いで、本蔵さんと出張に行きました。

-実際に別府でお話を聞かれて、どう感じましたか?


そうですね。研修会では、座学と実際のプログラム体験などがありました。座学では、理念や仕組みがきれいにモデル化されていて分かりやすい点と、オンパクを活用しているまちの方々がご自身の言葉でオンパクでのそれぞれのチャレンジについてお話されている光景を見て「これ、すごいなぁ」と思いました。
プログラム体験では、まちあるきなどを体験をしました。まちあるきの中で色んな人が登場するわけですよ。それで、「なんてすごいネットワークがあるイベントなんだろう。1つのプログラムに何人出てくんだろう。」と思いました。その時、「あぁ、これすごい。こんなことが出来たら楽しそう!」と興奮しました。

-ではその研修会に参加されて、オンパクの手法が都城のまちづくりにも使えるという風に思われたんですか?

そうですね。そのときは、ちょうど1年後に2店舗目の大型ショッピングセンターが市街地から少し離れたところにオープンするという時期でした。プラザの隣の百貨店の客足に影響があると私たちの管理している駐車場にも影響があるということもあって、出来る行政マンに、「このままでは、まちづくり会社は経営できなくなるよ」と言われ、「確かにこのままではやばい」とは思っていたんです。30代の社員の中でも、「20年勤められる会社にするにはどうすればいいんだろう」という話をしていました。そのスーパー行政マンのプランにはうまく乗れないけど、ここのまんまじゃいけないという問題意識で別府の研修会に参加して、「うちが取り組むのはこれなんじゃないかなぁ」と感じたんです。

-最初、別府は研修会を観光地向けに推しだしていて、観光地だから出来たという意見もあったと思うのですが、そういう部分で懸念はなかったですか?

僕はあまり「観光地だからできている…」という考えはなかったです。温泉泊覧会といっても、「プログラムは温泉ばかりじゃなく、それより裾野が広い。」という感触でした。地域の人がすごく近いところにいて、顔が見えています。お客さんも、それを体験できます。プログラムを提供しているまちの人たちの気持ちが見える催しだなと思いましたし、お客さんともすごく近い距離間で関係が結べるっていうのは幸せだという風に思いました。

-研修会に参加して、都城でも出来ると確信されたのですか?

確信はしていないです。ただ、研修会の3日目に、研修会のクロージングとして「具体的に各地域で取り組むには」を考える時間があったんです。参加者は自分のまちでどんなプログラムできるか考える時間があって、地域資源30リスティングで都城でオンパクをやると仮定した場合の地域資源とその地域資源の担い手をリスト化したりしました。最後にプランを宣言する時に、一緒に参加していた同僚の本蔵さんと2人で、「やるって言っちゃった方がいいんじゃない?」という感じになったんです(笑)。「やるのはここでは決定出来ないけど、やりたいなと思っているんだし、宣言しようよ。」と相談して、『開催したい!』ということを宣言しちゃいました。


※地域資源30リスティング:地域にどんな資源があるのか、またそれをどうプログラムにするか整理するために、具体的な個人名、固有名詞を挙げながらリストにしていくアクティビティー。

-有言実行ですね。


そうですね。勢いで宣言しちゃいました。そう宣言して、都城に電車で帰りながら色んな妄想を膨らましてたんですが、実際のやり方を知らないじゃないですか。「何からやるの?」みたいな感じでした。そうしたら、2007年12月に、別府の森さん(2007年当時のハットウ・オンパクのインターン生)が都城に来てくれたんです。

その頃、まちなか活性化フォーラムをしようと、市の所管課と僕と本蔵さんが企画をしていました。基本的には市が取りまとめるという話で。翌2008年2月のフォーラムでしたが、僕らが10月に別府の研修会に行った時にまだ講師もパネラーも決まっていなかったんです。
別府の出張から帰ってきて、「野上さんの話聞かせたいよね。オンパクの話は面白いもんねぇ。まちなか活性化フォーラムのパネラーにお願いしようよ!」ということで野上さんに電話で依頼をした時に、森さんが都城にいらっしゃったんです。
今思うと、別府のオンパクの方も都城で僕たちがオンパクやるのかどうかわからないから、森さんが都城はやる気があるのかどうか確かめるために来たんじゃないですかね(笑)。当時、自分たちはやりたかったですが、実際やるのかは組織的にはハッキリしていなかったですから。

-森さんとはどのようなことをされたのですか?

森さんが来て、「地域を色々見せてください!」、「知っている人に会わせてください!」と云われて、急いでいろんな所に電話を掛けて、一緒にまちの人に会いに行きました。その後、喫茶店に入って、「じゃあ、都城どうしますか?」という話になりました。

最初は、顔役である代表と、マネジメントする人、企画する人、この3人がいればオンパクは出来ると別府で聞いていたんですね。でも、企画役はやれるにしても、特にマネジメント役は自分たちができると思っていなかったんです。顔役は後でお願いするにしても、「マネジメント役が決まってないとオンパク側から支援が出来ない」ということを森さんからそのとき聞きました。

「佐土原さん、これから会社でどんなことがやりたいんですか?」と森さんに訊ねられて、僕は「自分も周りの人も、元気がめぐってふくらむようなことがしたいし、そういうことをみんなと共有したい!」と話しました。そしたら「オンパクぴったりじゃないですか!やったらどうですか!」って森さんに言われて、「やります!」と(笑)。

-では、喫茶店で確実に立ち上げが決まったんですね?

そうです。別府では代表に鶴田さんがいて、野上さんがマネジメントして、みんなを率いてオンパクをされているじゃないですか。やっぱり色んな経験を積まれた、みんなを統率出来るような人がマネジメントするのがいいと思っていたんですが、「やったらいいじゃないですか!」とその時森さんに云って貰って、「僕でもマネジメント役できるんだ。じゃあやります。やりたいとは思っていたんですけどね。」というように、そこから動き出したという感じですね。
今思うと、自分の想いを固めることが大切だったんですね。「できるか、できないか」じゃなくて、「よし、やろう!」と腹を決める感覚ですか?背中押してくれる人も重要ですよね。まちの状況や会社の周りの環境など旅立つ理由は揃っていたので、あとは「やる!」と決めるだけだったんでしょうね。

-実際スタートさせるにあたって、どのように準備を進められたんですか?

森さんが2007年12月に入って、翌年2月のフォーラムで野上さんが来られました。フォーラムの前に、「フォーラムの前日にボンパクの地域説明会をしませんか?」と森さんから云ってもらいました。「あと数日しかないけど、地域説明会に誰を呼ぼうか?」と考えて、「電話かけまくろうぜ!」ということでまちの人に電話で声をかけました。知っている人だけでは、足りないので、知っている人に「誰か元気な人知りませんか?面白い人知りませんか?」と聞いていきました(笑)。そうしたら、「誰々さんがいいと思うわよ。」と紹介してくださる方がいて、また、紹介された人に電話をかけて、「説明会にいらっしゃいませんか?」とお誘いしました。

-土壇場でのお電話でも来てくださる人はいましたか?

面識のない方にそんな風に電話していたら、末永さんというグリーンツーリズムの活動をされているおばちゃんに「オンパクの説明会?オンパクやるの?」と訊かれて、咄嗟に「やります!」と答えました。「じゃあ行く。私加勢するわ!」って仰っていただいたんです。その人は、以前、オンパクの野上さんの話を聞いていて、自分でやりたいと思っていたけれど、ちっちゃい市民団体をまとめるのは大変だから誰かやってくれないかなと思っていたと言うんです。だから、僕から電話があった時に、即「加勢したい!」と言ってくださいました。ただ、そのとき私が、電話口で「やります!」って返事していなかったら、会場に来るつもりはなかったということを後でその方から聞きました。


※末永さん:末永陽子さん。ボンパク実行委員会のメンバーでもあり、「ばぁばの知恵袋 さくら」の代表としてもプログラムを提供するなどして活躍する、明るく笑顔が素敵な女性。
(ばぁばの知恵袋 さくら:高城・石山地区で素材とばぁばの知恵を生かした活動に取り組む女性4人組からなる団体)

-そうだったんですね。ではそうやって地域の元気な方に説明会をされたんですね?

地域説明会には、商店の呉服屋の女将さんとか、郵便局長とか、10名位の市民の方が来てくれたんです。それから、まちづくり会社の社員と行政職員、観光協会の方なんかにも来てもらいました。

説明会が終わった後に、市民の方々に、「まちで楽しいことしませんか?よかったら実行委員に入ってください!」と言って実行委員に入ってもらいました。市民の方と実行委員会を作って、2008年の3月初旬に、4~5人でミーティングをしました。ミーティングをしたら、「1個プログラムをやってみようよ!」ということなって、みんなでまちの中を歩いてみたんです。

まちづくり会社の社長自身がまちなかでずっと暮らしてきて、商いもされていて、まちなかの人達のことも詳しいしということで、「明日まちあるきしますから社長がご存じのことを歩きながら話してください」と社長にお願いして、実行委員のメンバーの人たちを連れてまちあるきをしました。社長は、僕たちがやりたいことに理解を示してくださっていて、前々からまちの歴史に興味を持っていました。

まちあるきをする中で、近くのお寺の奥さん、坊守さんとお話ししているうちに、「お茶出してあげるわ。うちにおいでよ。」と言ってくださって、お寺で話を聞いたり、狭い道を歩きながら、ガイドの社長のエピソードを聞いたりしながらのまちあるきでした。

その後、みんなで分かち合いをしたのが古い喫茶店だったんですけど、末永さんから「高校時代、その頃の彼とここでデートした。今のお父ちゃんじゃないよ。」という話などが飛び出して、盛り上がりました(笑)。そういう思い出と発見が交差する感じ、「まちあるきの楽しさってこれか!」と思いましたね。

-では、徐々に都城でのオンパクの実施に向けて気持ちが固まったいったのですね?

あ~、それは別府のハットウ・オンパクのみなさんやアドバイザーの方々の支援体制が素晴らしいんですよ。2007年の12月に「ボンパクをやる」と決めて、翌年の2月に実行委員会を立ち上げ、3月には函館の研修会に1人講師で行って、会社や都城の現状を話す機会を頂きました。「何も始まってないのに発表?!」と思いながらもプレゼン資料を作り、発表しました。「地域の現状は?」といわれても何が地域の現状なのかわからなかったです。でも、アドバイザーの方や、他の地域の方から、アイデアをたくさんもらって、ジェットコースターに乗っているみたいでした。
オンパク研修会は、参加者の思いを固める運営が上手いんですよね(笑)。オンパクに取り組みたくなっちゃう。研修会で「やります!」と言っておいて「途中で辞めました」というわけにはいかないですよね。退路を断つということと貰ったアイデアなどでだんだんと決心も固まっていきました。

-函館で他の地域の人たちとは、どのようなお話をされたんですか?

函館の研修中、10月の別府研修会でわたしたちと同じ時期にオンパクを始めることを決意した総社の加藤さんが、アドバイザーの方からのアドバイスを聞いて、泣き出して、研修会が白熱しました。「なにやらすげー」という感覚でした。次のセッションで、総社の加藤さんの姿がみえないなと思っていたら、ホテルを飛び出して海岸に逃げたと後で加藤さんから聞きました(笑)。函館の研修会は壮絶な研修会でした。本気でやっている方々の横顔を見て、先に取り組んでいる別府とか函館とかいわきの方々の話を聞いて、「オンパクをやるってこんなことなんだ。」と思いました(笑)。取り組んでいる人たちの真剣さや取り組む姿勢も伝わってきました。

-イメージも出来てきたのでしょうか?

そうですね。地域でオンパクのプログラムを体験すると、「地域を巻き込んで出来上がるこういう姿もありだなぁ~」とオンパクの輪郭がつかめてくるという感じでした。ただ、まだプログラムの作り方や組織の作り方などについては、分かっていませんよ。あくまで、都城でやる博覧会の最終イメージが膨らんできたという状況でした。

都城に帰ってきて、実行委員会のみなさんに報告して、「これから何できるかな」と考えました。その時の課題としては、まだ実行委員長が見つかっていない状況だったので、まず実行委員長を探しました。

会社に入って2年目・3年目あたりから、4半期に1度、まちづくりをしている方や行政マンと集まって飲みだしたんです。まちの色んな人と飲んで話すのがとにかく好きな面白い行政マンが呼びかけ人で、以前まちづくり会社の取締役だったというまちなかの書店の社長を中心に、まちの若い人たちなどを集めての飲み会でした。ある時、「この飲み会に新聞記者を呼んで飲み会しよう。情報を新聞社に提供する時にいい関係が出来るから役立つよね」という行政マンからの提案で、それからは毎回、記者さんと日程調整しながら飲み会をしていました。それから、新聞記者さんとの関係も出来てきました。

2008年の3月の飲み会で書店の社長さんと飲んでいた時、「今度、オンパクするんですよ!」って熱病にうなされたように言ったんです。そうすると「何のためにするの?」と聞かれたので、「まちで元気に活動する人を増やします。応援してください!」と言いました。「はぁ、わかった、わかった。君がやりたいのはよくわかった。」という感じでした(笑)。

実行委員長を探した時に、今までまちにはないタイプの試みだったので、フレッシュな人がトップに立ったほうがいいと思っていました。それでまちなかの書店の社長・中村さんのところへ、本蔵さんと一緒に行って、「実はお願いがあって来たんですけど、実行委員長をしてください!」って言うと「うん、わかった、やろう!」って快諾して頂いて、即決で話を何も聞いてない状態なのに握手してくれました。

「いいんですか?まだ何も話してないですよ。」って訊くと、「飲み会でちょっと話を聞いていたので、今日、二人が来たときから決めていた。」と言ってくださいました。ちょっと感動もので、涙が流れました。そうやって実行委員長が決まりました。

その後「じゃあ早速、プレスに情報流そう!」、「もうやるって言っちゃおう!」と、実行委員長が一気にプレスリリースを流して記者会見しました。

-実行委員長を確定する際もドラマがあったんですね。「ボンパク」をやると発表してから、何が起こりましたか?


別府から森さんが来てくれて、「これで、組織は整いましたね。早速、プログラムづくりのための関係を作っていきましょう。」と云われ、地域資源30リスティングの担い手の部分のところに名前をドンドン挙げていきました。でも、そのリストに協力関係を書く欄があるんですが、担い手の方々とほとんど関係がなかったんです。そこで、森さんが「じゃあ関係を作っていきましょう!」と言いました。「え、全部!まぁでも電話しようか。」といって、電話で色んな所にバァーッとアポ取りしました。

その後それぞれに散って行って地域の人と色々お話をしたら、「みんな集合!」という感じで、エクセルで作った表に『この人とは関係が出来た、やる気あり』、『こういうこと出来る』というようなことをまとめていく作業をしました。

-それをしていたのは佐土原さん、本蔵さん、森さんの3人ですか?

はい、3人です。

-実行委員の方はその時期どのように関わっていらっしゃったんですか?

実行委員のメンバーは基本的に別に仕事を持っていて、ボランティアで関わっていたので、関われる時間が決まっているんです。それでも週に1回位集まって、みんなでプログラムのアイデアを挙げました。プランニングシートに50ぐらいは企画案を書いてもらったんじゃなかったかな?
担い手がいる場合は、実行委員会メンバーが知っている人であれば、紹介をしてもらいました。誰も知らない場合は、こちらからアプローチしてプログラム提供者候補の方々と会っていきました。そこを詰めていくという調整を、ほぼ3人でしていきました。あとは、末永さんは地域の人をよく知っているということで、電話をかけてアポイントをとってくれました。1年目は色んな人に会いに行きましたね。

そんな中で、コンサートをやりたいという実行委員のメンバーがいました。「アーティストはいるけど、場所どこでするのよ」という話になりましたが、「場所わからないから、どっかいいとこない?」と、みんなにアイデア出してもらうと、「神社でしよう!」、「お寺でしよう!」と色んな意見を出しあいました。1つ1つその実行委員のメンバーが場所を見に行って、「なんかイメージが違った!他の場所ない?」というように詰めていきました。

-佐土原さん、本蔵さんが中心となってリストを作って潰していくなかで、サポート出来る部分を実行委員のメンバーが入ってくという感じですね?

そうですね。最初、これから何をどういう風にするのかわからずに仲間探しをしましたが、その中で参加していただいた実行委員のメンバーはありがたいです。みんなで大切にしたいこと、伝えたいこと、まちの人でこんなこと考えている人がいるよ、みたいな話題を話すと、誰かの思いをみんなで共感できていきます。そして、それをまた広げていくことが出来るんです。

-一緒に取り組む仲間の存在は大きいですね。すみませんが、第1回目の「ボンパク」に至るまでの経緯をもう少しお聞かせください。どれくらいの頻度で森さんは来ていたんですか?

森さんは2008年の4月から1ヶ月に1回くらい来ていましたが、6月位になってこれはやばいということになって、2週間に1回来て3日~1週間滞在というペースでした。5月ぐらいに森さんが来てくれて一緒に作業して、6月にまた森さんが来た時に全然作業が進んでなかったんですよ。

-それで、森さんが来る回数が増えたんですね?

はい。森さんが6月に来た時に、はじめて地域の酒造メーカーから大口の広告が取れたんです。中村委員長から「この会社の専務さん、同じ勉強会で可愛がってもらっているから、行ってお願いしてみよう!」と言っていただいて、「こんなことやるんです!お願いします!」って頼みに行くと、酒造メーカーの専務さんに「よし、わかった。」って即決してもらいました。「やったー!これで出来る!」と、委員長と帰り道、握手をしました(笑)。

-じゃあ最初の広告は結構すんなりと決まったんですね。

なんとかですね。ただ、森さんが来て、「プログラムどうですか?」と聞かれると、「うーん、そっちは進んでません…。」「じゃあ今からやりましょう!会議しましょう!」ということで、プログラム作成作業を再開しました。

-そこから1ヶ月眠らない日が続いたという話をお聞きしたのですが…

そうです。とりあえず森さんが帰るまでは充分には眠れない日々でした(笑)。でも不眠不休ではありませんよ、さすがに…。森さんが帰った後も宿題が山積みでしたね。森さんとの深夜の作業中、僕は頭からシーブリーズをかけていました(笑)。もう本当に眠むくて、その頃3人で栄養剤をがばがば飲んでいました。

-大変なプログラム作成作業だったんですね。具体的には、どのようなことを行っていたんですか?また、どの部分が一番大変でしたか?

新しい人に会って、関係を作って、企画を練る!そんな流れでした。
地域に行って話をすると、その地域の人がいくつか「ここも出来るし、ここも出来るよ」って候補を挙げてくれるんです。そうやってアイデアを出してもらって、その場所を実際に見に行って確かめ、企画に落としていくんです。ただし、話をしに行った時点ではその地域の人たちとも初対面なので、「ここからどうやって企画作るん?」みたいな感じで、そこは頭が回らなくて結構大変でしたね。ただ、どの段階も全部森さんが作ってくれたシートに落としたんです。だから結構ロジカルに進めていけましたね。

シートは、実際に時間と場所とそこで何をするかを書いて、経費がどのアクティビティーでいくらかかるかっていうのがわかるシートだったんです。
そのシートを埋めていきながらイメージして、机にポストイットいっぱい貼って並び替えて「それだったらいけるか」ということを夜のファミレスでやっていました。
ご飯食べたら、「ポストイット出しましょう!」みたいなこともありました。順番に並べて、「明日これを確かめましょう!」といって電話をして、またその地域へ行きました。もうスパルタですよ。でも、どんなに前の晩遅くても、次の朝には昨晩話したことがシートに落ちている、次の段階のシートが出来ていました。森さんはスゴイなと思いましたし、自分の地域のことなので、こちらが弱音を吐くわけにはいきませんよね。

-そういう作業があってプログラムが出来ていったんですね。最終的にプログラムを全部作り終えたのはいつ頃ですか?

最終的に全部プログラムを作り終えたのは…作り終えてないです(笑)。作り終えないで、ガイドブック制作に入ったんです。ガイドブックを8月5日位に入稿しているので、だいたい森さんが帰ってすぐの6月20日位に、企画と同時進行でガイドブック制作に入りました。

-ガイドブック制作に関する思い出深いエピソードはありますか?

ガイドブックの文章を書く時に、森さんが来て、「ここの人はどういう特徴があるんですか?」と聞くので「地域作り頑張っています。」と答えると、「それ、面白いんですか?」と言われました。「確かに、頑張っているだけでは、魅力伝わらないよね。」と、はじめはそんな感じでした。
要するに、そこの地域の特色とか、どういう体験が出来るかとか、記事を書く時にチェックするべきポイントを意識して書かないといけないと気付いたので、どういう記事が面白いかとかを研究して、こういう要素が入っていれば魅力的になるという要素を文章に入れて、チェックリストをクリア出来る文章を作っていくという作業をしていきました。

-そのチェックリストも森さんが別府から持ってきたのですか?

いいえ。別府のオンパクのガイドブック見ながら、「この文章いいね。伝わってくるね。この文章のどこの部分がいいんだろう?」と、要素を抜き出していったんです。それで、『プログラムで体験できることは具体的か?』、『注目してほしいところは明確か?』、『ストーリーがあるか?』という3項目のチェックリストを作りました。

-自分たちでガイドブックの記事作成のポイントを抜き出して、それをチェックリストにしてクリアしていくという流れで進められたんですね?

そうです。実際ガイドブックにいろんなプログラムをレイアウトして、全体像がおぼろげに見えるという段階で別府の末田さんに入ってもらって、企画とガイドブックをさらに魅力的に見せるためのアドバイスをもらいました。そのとき、まちのお肉屋さんの料理教室にスポーツジムでの運動を加えたりして、プログラムが華やかになりました。

-なるほど。プログラムとガイドブックの魅力的な見せ方は重要ですもんね。
ガイドブックを8月に入稿して、10月に「ボンパク」が実施されるまでの間はどんな作業をされていましたか?


その間はプログラム提供者の会議を2回したので、結局初年度(2008年)は3回会議をしたことになります。ガイドブックが出来る前に1回みんなで集まりましたが、それも本当に手探りでした。
「お弁当出すと人が集まりやすいですよ」という別府の末田さんからのアドバイスに忠実に、お弁当を出して、お仕事をされている方もされていない方も来られる時間帯で、昼と夜2回やりました。
会議では、最初の時間で手短に実行委員会側から伝えることを話して、あとはプログラム提供者に自分のことや自分のプログラムのことを話してもらうという運営にしました。

-会議以外には、どんなご準備を進められたんですか?

準備としては、「出来たガイドブックをみんなで配りましょう」という意識統一が必要だったので、そのための会議をやった後、それぞれがガイドブックを持って、色んな人にお勧めしに回りました。
それからの実行委員会のメンバーの活躍はすごかったですね。実行委員が、自分の地区の小さい商店やスーパーや床屋、あらゆる場所にガイドブックを置いていきました。それと同時に、実際にボンパクを運営する時のスケジュールも作りました。8月末から、ようやく予約受付のスタッフを募集して面接をしました。
また、この頃でも、まだ講師として完全に決まっていないガイドさんと歩いて、「この家は風流ですね、入ってみましょうか?」と言って入ってみて、「もし良ければお茶でも飲ませてもらえますか?」みたいな話をしたりして、プログラム詰めていました(笑)。
プログラムを作りつつ、一方では運営でどういう人が必要か、何人必要かみたいなことを考えていきました。でも実行委員会が7人しかいないので、運営が回らないんです。1人ずつプログラムのアテンドをしたら、予備の人員がいなかったんです。運営スタッフが少ないのは苦労したところでした。


※アテンド:プログラムに付き添ってプログラム運営のお手伝いをすること


-では、運営スタッフの不足で1回目では大変苦労されたんですね?

実行委員会の7人も忙しい時があって、出られる時は全面的に協力を貰っていましたが、基本的にはまちづくり会社のスタッフがお釣りや領収書などは持っているので、僕と本蔵さんが遅れると始まらないんです。実行委員の方にまるごとお任せという企画はなかったと思います。全てのプログラムで当日も僕らが現場に行って、アテンドとして入って、ガイドのフォローとお客様の相手をするという感じでした。
そういえば、もうすぐボンパクが始まるという時に、別府の末田さんから「オープニングイベントしないんですか?うちの鶴田が『都城行きたい!』って言ってるんです!」と電話が掛かってきたんです。「おいおい、オープニングイベントだってよ!予定になかったのになぁ…」と慌てました。話題作りのためにやった方がいいということだと思うんですけど、こちらは最初の運営で慌てている時に、絶妙のタイミングで電話掛かってきたんです。急いで、オープニングイベントの準備をしました。


-じゃあオープニングイベントもされたんですか?
※オープニングイベントはプログラム開催初日に実施されました。

行いました。「せっかく行くので、観光協会の会長さんとか飲み会に誘ってみられたらいかがですか?」と末田さんに云ってもらって、商工会議所の会頭、観光協会の会長、まちづくり会社の社長、ボンパクの委員長と、別府の鶴田さんと一緒に居酒屋で飲み会もしました。

「別府のオンパクから、今、僕たちの状況が見えているんじゃないか!?」という絶妙のタイミングで電話やメールが入るんです。近視眼的になっているところに、柔らかい語り口でお誘いがあるので、対応することで見えてくるものありました。出来ないと思っているのは、意識の問題で、やる気になれば、なんとか出来ちゃうんです。いろんなやり取りの中で、そこら辺をやさしく教えて頂いたんでしょうね。

-そうだったんですね。少し時間を戻しますが、予約がスタートする時はどうでしたか?

ガイドブックを配った8月頃に、「これは成功するに違いない!」と確信しました。ガイドブックが出来たことに感動して、実行委員も僕らも一生懸命配りました。「これはいつもやっているイベントとは全く手ごたえが違うぞ!」と思っているところへ、ガイドブックに予約受付の開始日が9月20日と書いてあるにも関わらず、ポツポツ電話がかかってきたんですよ。「どこでガイドブックを取られたんですか?」と聞くと、どこで取ったとか、誰々さんから貰ったとか、何に参加したいとか、何と何が楽しそうだとかいう話をしてくれるんです。その時「あぁ、これだったら集客は成功するな」と思ったわけです。

-では、その時が「これはいける!」という風に思われた最初の瞬間ですか?

最初に「これはいける!」と確信に変わったのは、その時です。2007年の12月にやるって決めた時からオンパクをやって失敗するとは全然思ってなかったですね。ただ、つくり上げるのは大変というのがありました。実際やったことがないので、あとどのくらいで今やっていることが出来るのかわからず、決めましたから。「プログラムを作って、ガイドブックにするまであとどれだけ作業があるの?」という感じでした。でも、失敗するとは全く思っていなかったです。別府のオンパク見たイメージと、ハットウ・オンパクの支援の内容が素晴らしかったので信頼していました。それが成功の確信に変わったのは、ガイドブックを作って配った後に電話が掛かりだしたこの頃ですね。

-そうなんですね。では実際プログラム実施がスタートして、何か問題になったことはありませんでしたか?一番苦労されたのはやっぱり主催のプログラムでしょうか?

主催プログラムですね。大変でした。初めてなので、お客さんが会場でどのように動くか、わからないのと、僕たちがどんな風に楽しんで貰いたいのか、ということがはっきりしていなかったんです。他の団体の方々がガイドや講師の時には、お客さんの目線で想像して、イメージできなければ、丹念に話をしていましたから、大丈夫だったんですが、自分たちの時のプログラムを後回しにしていたんです。

-そんな大変な部分もある中で、第1回目の「ボンパク(都城盆地博覧会)」(2008年10月4日~19日開催)が終わってみて、どう感じましたか?何か印象に残っていることはありますか?

お客さんとスゴく近い距離で色んな事を話せることが、「いい体験だなぁ」と印象に残っています。
最後のあたりは、5つも6つも参加してくれているおばちゃんたちと毎日会うという状況でした。
子牛の競り市見学という、プログラム実施数日前まで申し込んだ人が1人もいないプログラムがあったんですよ。そこで、他のプログラムに複数参加しているおばちゃんたちに話すと興味を持っていただいたので「最高ですよ~。行きません?一緒に楽しみましょう。」とお誘いして開催しました(笑)。ガイドをお願いしている方もいるし、都城でプログラムを提供するなら、これがしたいというプログラムだったので、開催中止は絶対に避けたいと必死で集客しました。結局7名ぐらいの方に参加してもらって開催しました。
私も行ったんですが、面白かったですね。ガイドの方が非常に熱心に説明してくださって…牛丼も食べました。最後に参加者の1人が「農家の方が丹精こめて牛を養って下さっていて、最終的に私たちが食べているおいしいお肉になるのね」と云って下さって、「やって良かった」と思いました。そういう経験をして「これは、ホントに楽しいなぁ~」と思いました。


※子牛競り市見学プログラム:JA家畜市場にて都城産の子牛が競られる様子を見学するという、第1回目のボンパクで実施されたプログラム。


そうそう、思い出しましたけど、全プログラムが終わったあと、会計が全然出来なくて、最悪でしたね。会社の金庫に、お釣りと参加料金をもらった何プログラムかのお金が残っていたんですが、そこのお金が合わないんです。精算が終わらないうちにそこから次のプログラムに持っていくお釣りを取り出していて、収支が合わないのだけれどいつ合わなくなったのかわからなくなってしまいました。もう全然合わなくて、経理スタッフに緊急出動してもらうという事態になり、いつも優しい局長もカンカンでした。

そういうことがあって、3月末まで、次回ボンパクに向けてボンパクの実施体制をどう改善するか、報告書・計画書を何度も出しました。

-じゃあその辺は2回目ボンパク(2009年10月10日~11月1日)の時はばっちり改善されて、準備もスムーズに進んだのでしょうか?

2回目は、1回目に比べると段違いにスムーズでしたし、企画面でも充実させました。2回目は、1回目のプログラムづくりのノウハウをベースに、プログラム提供者を公募したり、ビジネスチャレンジの事業者の方に広告掲載料をご負担いただいたり、まちなかのお店にボンパクオフィシャルチケットでお買い物できるよう協力してもらったりしました。まちの飲食店での晩酌セットにもチャレンジしましたね。提供者の公募は少し大変な思いもしました。プログラムを提供したいと集まっていただいた方の動機が多様で、なかなか掴めなくて苦労しました。
1回目は、何が起きるのかわからない中で、「PRになるかもしれないから参加してみようか!」とか、「こんなことやりたい!」と云ってもらった人たちにプログラム提供をお願いして行ったんです。ところが、一度ボンパクが行われたのを見て自分もプログラムを提供したいと来られる方や、ビジネスとしてプログラムを提供する人たちの動機が全く違うことが、企画担当の本蔵さんは調整が難しくて大変そうでした。

-どのように調整をされたのですか?

まずは、プログラム提供希望の方の動機をしっかり捉えることですね。プログラムを行うことでどんなことを伝えたいのか、これがはっきりするとプログラムをどんな方向性で仕立てていくかということが変わります。つまり、どんな種類のチャレンジなのかを把握することでしょうか。
次は、やはり参加する方が楽しいほうがいいし、ガイドブックの読者が「何があれば参加したいと思うか」という視点からプログラム企画を一緒に作っていきます。プログラム提供者は、参加者と近い距離で関わることで新しい気付きがあったり、ヒントをもらったりします。
ただし、最終的にはプログラムを提供する方とプログラムに参加していただく方のいい出会いの場を作るというのが、調整の一番大切なところですね。
2年目は、営利団体のプログラム提供者には広告掲載費をいただきました。ボンパクとしては、そんな提供者の方のプログラムにお客さんが来るようプロモーションするプレッシャーが加わりました。
広告掲載料の中に企画料が入っていますからね。お客さんが参加したくなる、参加できるプログラムをどう作るか、文章をどのように書くかを徹底してやらないといけませんでした。その部分が難しかったですね。

-その辺の調整はこれからの課題なんでしょうか?

いや、もうそれはクリア出来ています。1回経験したからもう大丈夫です。2回目の企画で事例がたまっているんです。プログラム企画に関してこれはミスディレクションだったっていうものに対しても、こういう時はこうしようっていうのを組織で反省しています。

あと、プログラム提供者と企画をする時のコミュニケーションが大事ですよね。このコミュニケーションが上手くいかないと、プログラム提供者の方のチャレンジの舞台が整いませんから。
例えば、企画をつくっている段階で、日頃忙しいプログラム提供者の所へ、私達が出掛けて行くと、その場で企画が進むということも体感しています。普段は、日常のことに忙しく、プログラムを作りたいと思っていてもなかなか考えられないですが、私達が伺うと、その時間はプログラムのことを考えることが出来ます。
これは、ちょうど1回目の時に私たちが進められていない時に、別府のオンパクから森さんが来ていただいて、その時間はボンパクのことを考え、推進できたという経験から来ているんです。1回目に別府に支援していただいたことがこんな場面でも役立っています。

-では、実行委員のみなさんは経験をケーススタディとして積み上げ、共有されているということでなんですね?

はい。反省会をして、みんなで起こったことを挙げて、対応するものを決めて、改善策を練っています。それを実行委員会メンバーで共有するということを行っています。

-他にも活動の向上のためにされていることなどはありますか?

オンパクの研修会に出た時に、他の地域でやっていることで、「これいいな」と思うことがあったり、他の地域のオンパクをやっている仲間に「都城ではこんなことできるんじゃない?」と言ってもらえたりするんです。
僕は、「こんなことやったら?」と言われて、イメージできたことは大概チャレンジすることにしています。毎年同じことをやっていると話題性も減っていってしまうので、違うこと・新しいことを付け加えていきたいなと思っています。でもそういうのは全国のメンバーから学んだことです。全国のメンバーも自分の地域で毎年色んなことにチャレンジしていますもんね。

僕らの新しい取組みは、ほとんど誰かから考えを頂いたもの、誰かとの間で交わされた会話からきたものですね。自分にないといけないのは、問題意識を持っておくということと、新しいことに取り組むということですね。

-誰かと交わす会話や研修会からいかに自分自身が吸収出来るかということですね。

地域でいろんな人と話をして、企画をして動いていると、小さいことから大きいことまでごちゃごちゃになっていきます。だから、全国のみんなに会った時に話すと、また新しい発見があり、そこから新しいものが生まれていきます。いろんなヒントもらえますし、新しいことを始めるときも、他の地域の方に問合せが出来るので助かります。今、取り組んでいる各地域のメンバーは、オンパクの地域づくりの理念を共有しているのもいいですね。同じ頃に立ち上げた地域の方とは、それぞれの以前の状況もお互いにわかっていますから、感慨がありますね。

-都城市に合併した後に、合併した地域間の連携をボンパクで繋げていきたいとおっしゃっていたのを以前お聞きしたのですが、ボンパクを通して実際強くなっていると感じられることはありますか?

強くなっていますよ!
プログラム提供者がボンパクで知り合った他の提供者のところへ会いに出かけて行った話を聞いたり、プログラム提供者同士が仲良くなり一緒にイベントをやったり、事務局に気になる方へ問合せしたいから連絡先を教えてくれというような問い合わせもよくありますね。そんな交流が起こっているのを聞くと『やっててよかったぁ』と思います。新聞記者の方も、私たちの事務所を訪ねてくださることが増えました。

今月(2010年)1月の市の広報誌では、表紙をめくるとぶち抜きで「魅力ある地区の特集」として都城市内のゲンキな地区が取り上げられています。秋のボンパクの時に、広報マンが来て撮った写真がそこにバーッと使われていました。広報誌に掲載されていた地域の方に電話を掛けると喜んでいて、私たちも一緒に喜びを分かち合いました。

あと、電話をしているといっぱい嬉しい知らせが届きますね。そういうのはいいですよね。
その時僕らが「今どんなことに取り組んでいます?また、新しいことやりましょうよ」とお誘いすると、次のアイデアをちゃんと考えてくださっています。お客さんにコメントしてもらったことから、新しいアイデアが生まれていて、何かが動き出したかなと思うと、嬉しいですね。

また、プログラムが終わった後に、パートナーさんにインタビューしてその内容をまとめるという活動も行っています。これは、企画しているときより楽しいかもと、私は1人秘かに思っています(笑)。何が起こってどういう変化があったのか話を聞けるので、プログラムを作っている時よりも心地よいです。その人の数ヶ月前の姿を思い出すこともありますし、何よりやる気が増大して、次にやりたいことを語っている人が目の前にいますから。ボンパクを応援してくれているスポンサー企業の方には、報告書などに付け加えてこのインタビューシートもお渡しするようにしています。

-そういう嬉しいお知らせは、次へのモチベーションにもなりますよね。2回のボンパクを終えられて、次やってみたいことや夢などはありますか?

この事業を黒字化しようと考えています。利益を出そうということではなくて、まちで回せる活動にするということです。会員制度を作ったり、協賛企業を増やしてボンパクを支えてくれる人たちに、ボンパクで起こったことや地域の変化を報告したりしながら、継続的に支援してもらいたいと思っています。意味づけとしては、ボンパク事業についてはこの活動の意義を確かめながら、実施していくというのがあるべき姿だと思っています。だから地域でちゃんと回せる仕組みを作りたいんです。

他には、この前、別府で研修会に参加した時に(2010年1月)、「今年のボンパクのテーマは肉でいくことにしました!」と宣言したので、そういう方向でいこうと思っています(笑)。1年目はプログラムの中に地域ブランドを意識したのがちょっとあったんですが、2年目は提供者拡大にかなり力を入れていたので、地域の特色をガンと出すプログラムが少し物足りなかったと感じています。だから次は「地域ブランド」で賑やかにしたいなと思っています。特産品の牛、豚、鶏はもちろん、猪と鹿を食べられるプログラムをつくるとすごいぞ!と思っています。『これぞ、都城』という素材を使ったプログラムや、都城の良さが伝わるガイドブックを作りたいですね。あとは、まちの飲食店が休日の昼間に、肉をテーマにメニューを会場で提供して、まちで一番のお肉料理を食べられるお店を決めるイベント、『肉1グランプリ』!やってみたいですね。

-お肉が勢ぞろいですね(笑)。キッズボンパクの開催も検討していると伺いましたが、そちらはいかがですか?

キッズボンパクは昨年(2009年)、ボンパク開催前の夏休みに、たちばな天文台の蓑部さんとプレボンパクしましょうということで、「手作り望遠鏡作りと天の川そうめん流し」というプログラムをしました。天文台の階段の上から10メートル以上にわたって竹をセットして、そうめん流しをしたんですが、子ども達が興奮して、楽しんでくれたり、四家という山あいの地域でのプログラムに家族で参加していた小学生と地域の小学生が意気投合して、カブトムシの幼虫を取って楽しんだという交流が生まれました。そんな楽しみや出会いをもっと作りたいと思ったんです。実行委員会の中にも、『子どもたちが地域のよさを実感できる機会をつくりたい』というメンバーもいるし、何人かのプログラム提供者(パートナーさん)に話すと、みんな乗ってくれました。いつもボランティアでボンパクを手伝ってくれる行政の方も「それはいい」と太鼓判押してくれているので、是非やりたいなと思っています。

また、合唱の指揮者の方が「少子化で子供が減って、学校の部活動や公民館の行事などの集団活動もなかなか地域でできない現状がある」とお話されていました。プログラム提供者や参加者がボンパクでの体験で学んだり、楽しんだりするように、子供たちも体験を通して、新しい楽しみを見つけたり、学んだりすると思うと楽しみです!

-これからの地域を担う子ども達に、地域の魅力を知ってもらい、地域を好きになってもらうことは地域にとっても大事なことですよね。地域への影響力の強いボンパクですが、佐土原さんにとってボンパクとは何でしょうか?

そうですね、僕らが提供している路面電車みたいなものじゃないですかね。まちなかを色んな人を乗せて走れる乗り物です。みんなが楽しんでくれて、「頑張ってね!」とか、「私こんなものが好き!」とか、そういう想いも乗せて走れる乗り物です。

昨年のボンパクのガイドブックを見ていただいた都城出身者の方で、現在は神奈川県にお住まいの方からメールをいただいたんです。表紙裏の1ページに実行委員のメンバーがラブレターを書いたんですが、そのメールには「ラブレターに胸迫る想いだった」と書いてあったんです。そして、「それにつられて全てのページに目を通し、編集者のまちづくりに対する愛情を感じた」と書いてくださいました。これは、本当にうれしいことでした。実行委員会のメンバーで喜びをわかちあいました。こんな声に後押しされて、こんな方々の想いも乗せてまた走りたい、そんなイメージです。

ボンパクは、僕にとって「完全な成功体験」ですね。苦労したし、ガイドブックができたときや予約センターに予約が殺到したとき、プログラムを全て終えたときの充実感がすごかったので、みんなと繋がった実感がありました。また、その後も興味持った方が集まって関わってくれたことでも繋がりを実感しました。2回目を始める時にボンパクに関わりたい人に向けた説明会をやったんですが、それには55人ぐらい人が来てくれました。こんなにと思うくらい来て頂いて本当に嬉しかったです。面白いですよね。

あと、最近は、ボンパクはみんなが集う広場のようでもあるなと思っています。そこでサッカーしたり、缶蹴りしたり、自分の取り組みたいことをそれぞれが出来るんですね。ボンパクは、いろんな方が思い思いに遊べるスペースや新しいことに挑戦する機会を作れる広場みたいだなと思っています。

-ありがとうございます。路面電車、集いの広場…どれも素敵な表現ですね。
では最後に、これからオンパク手法を使ってまちづくりをやりたいと思っている方にメッセージをお願いできますか?


そうですね。オンパクの話を聞いて、「面白そうだな、やりたいな」という方には是非、挑戦して欲しいです。必ずやっただけのことはあるし、拡がっていきます。
あと、まちの中の公益的な団体、まちの中間支援組織、まちづくり会社、文化施設を指定管理者として管理していたりする団体にもお勧めしたいです。僕たちの場合は、自分たち組織の活動とまちの現状の間で課題がありました。自分たちの公益的な活動が、住民の方の役に立っているのかどうか悩んでいる公益的な組織の方にはお勧めです。
少し理念の再定義をする必要はありますが、取り組むと回りだします。オンパクの考え方や手法には、人をゲンキにする考え方や取り組みやすい方法が詰まっています。一度やると、地域や組織の中で新しく気付くこともあります。そして、何よりまちのことを一緒に考える仲間ができます。動き出すと人は集まって来ますからね。
僕らはまだ2回しかやってないですが、始める前と比べると自分たちが出来ることの可能性の輪みたいなものは相当広がっていますからね。

-質問は以上です。長時間、貴重なお話をどうもありがとうございました。










(インタビューをした個人的な感想)
ボンパク立ち上げ~実施に至るまでの過程を細かくお話していただき、表からはわからない山あり谷ありな部分を知ることが出来ました。また、ボンパクはNPOでなく会社が運営しているという部分でも参考になる視点や要素が沢山あると思います。
佐土原さん自身、ボンパクでやりたいことを沢山持ってらっしゃるので、今後のボンパクに「都城色」がより濃く出てくるのではと楽しみにしています!
限られた時間の中でたくさんお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました!









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  1. 2010/09/30(木) 17:40:08|
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鶴田浩一郎さん(NPO法人ハットウ・オンパク)

オンパクの生みの親 別府オンパクの鶴田浩一郎さん



NPO法人ハットウ・オンパク 代表理事
鶴田浩一郎さん


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今回は、NPO法人ハットウ・オンパクの代表として、観光カリスマとして、別府のまちを牽引する「まちづくりのリーダー」である、鶴田浩一郎さんに、お話をお聞きしました。

このインタビューは、平成22年1月25日にオンパク事務局で立命館アジア太平洋大学4回生の森本舞佳が行いました。





―NPO法人ハットウ・オンパクの設立経緯を教えてください。

始めた時の別府の環境から話します。1990年代に別府はどちらかというと衰退観光地になっていたんですね。基本的に、地域というのは人間と同じで元気になったり、衰退したり、成長したり、いろんな局面があるわけです。1990年代の別府は落ちるばっかりの衰退期の時期だったんです。観光統計などを見ればわかるのですが、非常に長い衰退期を別府は過ごしているんです。今、観光は産業として言われるようになったのですが、当時は観光っていうのは産業として日本の中で確立されていなかった時代です。観光は、よくいわれる電気、鉄、自動車、ITとかいう産業と全く違うんですよ。企業を育てれば、産業が育つみたいな話ではないんです。観光は、地域と根付いているから、一つの企業がいくら頑張っても、地域としてはうまくいかないんです。

でも、最初の頃はそういうことがよくわからないので、とにかく「地域はもっと元気にならなきゃ」と思っていました。別府がずっと低迷を続けていたように、全国で同じようなことが起こっていました。1980年代までの最大の温泉地っていうのは、東の熱海と、西の別府だったんです。大型温泉地ですね。そういうところは1970年代以降、日本の高度成長時代はとても良いわけです。その当時は、基本的にお客さんの中身は団体さんです。

―社員旅行とか、修学旅行みたいなものですよね?

そうそう。会社でもインセンティブをつけて、旅行させていたんです。団体旅行の種類が山程ありました。1980年代までは、企業などの枠の中で、バスで揃っていくっていうのが観光形態だったんです。

それが変わっていったのが、1990年代です。経済環境が、大きく変わって、旅行形態も変わっていったわけです。その中で別府は1990年代に衰退という観光地としての位置づけになったんです。さっきも言ったように別府だけじゃなくて、大型温泉地と言われる、100万人位泊まれる温泉地って日本に40か所位あるんですよ。一番大きいのは、箱根、鬼怒川、5番目位にいつも別府がくるんです。そういう温泉地が全て衰退期を迎えるわけです。

その時、どう手を打つのか。さっき言ったように、産業で言えば、一つ一つの企業、NECさんが頑張るとか、富士通さんが頑張るとか、鉄だったら新日鉄さんが頑張るとかありますよね。一般的にはそういう政策をとればいいんですが、観光はどうも違うんですよね。地域に人が来ることなので、地域に魅力がないとどうも人が来ないんです。例えば、別府で言うと、杉の井ホテルさんだけがとても素晴らしくても、地域としては衰退期を迎えて、いわゆる杉の井ホテルが立派なホテルであっても、このホテルも駄目になってしまいます。だから、観光というのは、どうも観光産業の人たちだけで頑張れば良い問題ではないんですね。格好良く言うと、地域の市民とか、地場産業の人達、地域にいて仕事をしている中小、零細の人達、こういう人たちがやっぱり一所懸命頑張って、地域を元気にしながら、お客様を呼んでいくという構造を作らない限りはうまくないのです。これが、1995年以降に僕らが気付いたことです。それまでは気が付かないんですよ。良い時代は、一人一人なんとなく頑張っていれば、右肩上がりにお客様が増えますからね。だから、集客のマーケットがどうかという話や、お客様が来る基本的な構造を把握しなくても良いわけです。企業で頑張っていれば右肩上がりだから、問題点が見えないんですよ。集客がちょっと大変になり出して、問題点が見えてきたのが、1991年のいわゆるバブルの崩壊の時です。

―では、観光の視点からまちづくりの取り組みを始められたのですか?

そうです。僕がまちづくりを始めたのは、観光はまちづくりをやらないとどうもうまくいかないというのがわかったからです。1994年、きっかけとしてやったのが、クリスマスHANABIファンタジアというイベントでした。今もやっていますよね。あれは、実は、僕達が民間で立ち上げているんです。民活の地域イベントなので、商店街、旅館街、行政、全部を一つにして実行委員会を作って、立ち上げて、私は2000年までやっていました。これはとてもうまくいったイベントでした。こうやって街の人達と一緒にやっていくというのが、とても大切なことだと認識していたのですが、最終的にはあまりうまくいきませんでした。お客様はいっぱい集まるんですが、やる人のモチベーションがばらばらになってくるんですね。こういうイベントの場合、儲かる人は一生懸命やるけど、儲からない人はどんどん腰を引いていくという構造になっていくわけです。それと、最初の頃は皆、一所懸命やるんですが、そういう構造が出来てしまうと、腰を引く人が随分増えてきて、本気で街のためにやる人がいなくなってくるんですね。今は20万人位集まるけれども、集客交流の派手なイベントというのは、どうも仕組みとして街を長期的に、サステイナブルに発展させていくものじゃないなというのが現実になったわけです。

―大きなイベントの問題点が見えたということですが、どのように対処していかれたのですか?

次に「何やるの?」と言った時に、何をやるかわからなかったんですよ。どうしていいかわかりませんでした。そこで、どうしていいかわからない時には、どんな小さなことでもいいからやるべきだと考えました。衰退期なので、再生のタネを見つけていくという仕事をすればいいんですね。それで、再生のネタ探しをやったわけですよ。そのネタが、いくつかあったんです。例えば、最初に気がついたのは、温泉と医療とか、温泉とエステとか、温泉とリラクゼーションとかです。今で言うウェルネス産業というのに気がついたわけです。そのあと、「これはやらなきゃ」となったわけです。

そうすると当然、「長期滞在をやらなきゃ」となりました。こうやって将来、絶対、別府の産業、ビジネスのネタになるというテーマがいくつか出てきたんですよ。ネタ探しの次に何をしなければいけないかというと、やりたいと思う人を集めないといけないんです。色んな人を集めてやっても、興味がある、ないっていうのがあるから、ともかく小集団でやりたい人だけ集めるというのが最初のベースとなり、そして、現在の活動のベースになりました。最初からやりたくない人を集めていたら、うまく進まないんですよ。ともかく足をひっぱるんですよね。だから、やりたい人だけ集めました。立命館アジア太平洋大学(APU)の畠田先生がやっているロングステイの研究会や、大黒屋の安波さんを中心とした鉄輪の地獄蒸しですね。再生のネタを探していって、それをやりたいとか、面白いとか思った人を集めていくという作業から始めました。

そうすると最後に、オンパクの5つのテーマが生まれてきたんです。オンパクの5つのテーマと言うのは、1つは別府の「温泉力」をどう見せて体験させるかです。そして、それに関連して非常に大きな温泉と健康と癒しと美という「ウェルネス産業」をどうやって育成するかになります。

さらに、別府が戦後喪った「文化」や別府独自の「文化」というものを見つけ出して、それを商品にしていくというものです。文化に関する典型的なものは散策ですね。まちあるきで古い別府の物語をガイドさんが話しているのを聞きながら、「別府は、こんな街なのか」と思うことです。文化という限りでは、流しの「はっちゃん・ぶんちゃん」もそうなんですよ。「はっちゃん・ぶんちゃん」という流しの文化は、かつてあった文化ですが、今はもうカラオケに駆逐されてないんですね。だから、もともとあった文化をもう一回再生させていくという流れを作るんです。芸妓さんもそうです。芸妓遊びも昔はあったんですが、今は別府に芸妓さんはほとんどいないんですよ。温泉地って昔は、どこでも芸妓さんがいたんですけどもういないんです。それをもう1回持ってきて、「温泉文化って何?」というところを体験交流しているんですね。それは、文化視点で別府の文化をもう1回掘り起こしてみようという取り組みです。

それと、当然、これはどこにでもあるんですが、「自然」をいかに体験してもらうかということですね。別府のイメージはどうしても街中にあるんですよ。でも、別府には、棚田や明礬の奥の方にある露天風呂などの自然もあります。特に、ここでは棚田が脚光を浴びたんです。四季に応じて作業があるので、1次産業っていうのは圧倒的に体験型プログラムを作りやすいです。

最後に「日常の食」です。この5つですね。日常の食というのは、いわゆる今、B級グルメなんかでやっているものです。例えば、お惣菜屋さんなんかはその土地によってかなり独自のものがあるんですね。お惣菜屋さんの場合は、別府で売っているお惣菜は福岡なんかでは絶対売っていないんですよ。全然違うんです。旅館の料理よりも違いがありますね。だから、お惣菜屋さんメニューの散策が出来たりするわけですよね。やっぱりそこにしかないからですね。お客さんはそこでしか見られない、食べられないんです。

この5つのテーマというのが、実は僕にとっては「別府再生のテーマ」なんですね。だから、ここに関わる人が増えるとか、ここに関わって事業をやっていくという人達が増えれば増えるほど、ある意味で別府っていうのが再生路線に乗っていって、なおかつ、今、言ったように集客交流としての機能も果たせるんです。別に宿泊客じゃなくても、隣町の人が来てもいいんですよ。オンパクが最初に発想したのは、隣町の人が別府に来て、体験して、面白いと思ってもらって、それを情報発信してもらうということでしたから。「隣町の人が面白いと思わない街に、宿泊客なんか来ない」というのが考え方の前提になっているんです。だから、宿泊客はもう後の後で良いんです。周辺の人が「別府って面白いね」って言いだすというところが極めて重要なところだったんですね。その後に宿泊客が来れば良いんです。だから、過去の観光振興と手順が違うんですよ。過去の観光振興は、例えば、福岡とか東京に行って、お客さんに「来てください。別府ってこんなところですよ」と宣伝していたんです。そういう手順ではなく、地元の価値をいかに高めるかということですよね。以前は、地元の価値は放っておいて、外だけにプロモーションやっていたんですね。衰退期の観光地では、基本的には地元にある価値をもう一度高めていかなきゃいけないんです。

―それに気付かれて、別府でオンパクを始められたのですね?

そうです。2001年からオンパクが始まり、色々なことが動き出しました。最初は、県から補助金をもらって始めました。

オンパクで、まちづくりの手法を変えたんですね。まちづくり系の話は随分前からやっていたんです。ただ、その手法がどうもわからなくて。誰を巻き込むとか、どういう事業をやっていくかっていうのが、よくわからなかったんです。そして、イベントというのは、花火みたいに集客は出来るけれども、持続的じゃないことがわかったんです。別府の名前は、その日だけ有名になるけれども、翌日イベント終わったら、祭りの後だから非常に寂しいんですね。それから、継続的に事業者さんを育てるというのは、ウェルネス産業など産業振興やるのが、ちょっと時間かかっても、実は一番早いかなと思います。

―次に、ジャパン・オンパクの展開について教えてください。

ジャパン・オンパクは、もともと函館から始まっているんです。函館の僕の友達が、オンパクの話を聞いて、「函館に来てほしい」と言われたんです。東京で講演会をやって、僕が話した時にちょうど函館の人がいたんですね。もともと旅館や観光協会の人間なので、主要な観光地の主要なメンバーはだいたい知っているんです。特に、若手ですね。若手と言っても、今は50代ですが。それで、函館に2回行きました。やっぱり、湯の川温泉という大型温泉地を持っている函館市の活性化の話でしたね。どこも大型観光地は大変なんです。それで、2回位行った後に、オンパク手法をやりたいという話が来たんです。その少し後に、大分県の勧めもあり、経済産業省のモデル化支援が獲得出来て、別府のオンパクを外に持ち出すような予算を付けてくれることになったんです。それで、函館もあまりコスト負担なく、僕らの支援を受け入れることが出来ました。

そこから、オンパクモデルを移植するのに、試行錯誤が始まったんです。でも、少なくとも最初からわかっていたのは、民間中心のリーダーが必要であることですね。行政主導だとあまりうまくいかないんです。参加型のプログラムを作っていくので、観光事業者さんだけが集まらないように、街の人を集めるようにしました。企画グループは、商品企画だから女性を中心に集めたりしました。それから、ITの担当者です。今、まちづくりにはIT担当者が必ずいるんです。昔はいらなかったですが、今はやっぱりインターネットでのプロモーションは必需品なので、インターネットにちょこちょこあたれる人間が側にいないといけないです。業者に委託していたらコストに合わないですからね。それで、函館では最低限それをやりましょうということになりました。ベースは、今言ったような人達ですね。あと、地域をどうにかしなきゃいけないというモチベーションの強い人は、やっぱり数人集めないといけなかったですね。3人とか5人は、コアとして、きちんと組織としていれる必要があります。それ位のことですよね。今でも中心はあくまでこれです。オンパクは、これがなかったら動かないです。あとは、いわゆるテクニカルな、予算の取り方とかなどを移植していくんですね。これが函館、第1号目です。

―そして、色々な地域に広まっていったのですね。

第2号目は、長野県の鹿教湯温泉です。ここは、お金がなかったので、僕が2回くらい行って、ITの仕組みだけ持っていきました。鹿教湯のリーダーは僕の後輩です。経済産業省のサポートがついていたので、「やる?」と聞いたら、「やる」と言ってくれました。ただ、今、言ったように鹿教湯温泉というところはITの仕組みだけです。今でもITの仕組みだけ貸しています。予約システムとウェブシステムですね。

そこから増えていきました。経済産業省の事業がうまくいったので、拡大していったんですね。それで、10か所まで伸びていったというのが経緯です。その中で、経済産業省の要望もあって、いわゆる導入マニュアルに関しての精緻なマニュアルを作成しました。予算が付いていたので、作らなきゃいけなかったんです。そこで、別府からオペレーション・運営で野上さんが現地に行って、企画で末田さんが行って、ITで門脇さんが行くというこういう3つの流れが出来てきたんですね。

僕は、時々、何かあれば行くようにしていますけど、あんまりテクニカルなことは話さないようにしています。さっきのような地域をどうにかしたい人をどうやって集めるかなど基本的な問題だけですね。あまり私心のない人を集めなきゃいけないからですからね。私心がありすぎると自分の企業のことばっかり考えていますから。観光産業って自分の企業だけ良ければ地域がよくなるかって言ったら、絶対良くならないですから。地域が良くなれば、最後、自分の企業も良くなるんですよ。地域で商売しているんですから、これはもう一般的なことです。また、地域コミュニティを、ある意味で同じ方向に向かわせておかなきゃいけないです。それもやっぱりテクニカルな問題というよりかなり人間関係の問題なんですよね。

―現在の確立したように見えるハンズオンのマニュアルは、そうやって少しずつ出来上がってきたんですね。

そうです。実は、これがジャパン・オンパクの流れです。最初、外に持っていったのは、オファーがあったから持っていったんです。面白そうというところから始まったんですね。そして、今の国の施策が、経産省のコミュニティビジネスとか、中間支援団体育成、NPOや社団法人の育成という方向にあるので、ぴったり噛み合っていったんですね。それで、予算が出るという構造になっています。

ハンズオンで手とり足とり支援したところはほぼうまくいっているので、一応オンパクの評価はあがっているということですね。今、APUの三好先生から成果軸の話、評価軸の話をいただいているので、あれも横並びで見る報告書を作成するときに、非常に役に立ちます。標準化ですね。だから、別府で標準化したものを函館に持っていって現地化するんです。標準化と現地化の繰り返しですね。色んな現地があって、当然その現地を見ていると、「あ、これ標準化した方がいい」っていうものが出てきて、それを標準化していくから、マニュアル部分はどんどん拡充されて、比較的精度の高いマニュアルが出来てくるんですね。これは、移植のテクニカルなところです。実際の話は、最初に言ったようにどんな人を集めるかで、成果は決まります。リーダーがこの人だったらうまくいかないかなとか思ったりしますね。

―うまくいかないことがわかった時はどうなさるんですか?

だいたい最初からわかりますけどね。どこでも、一定の成果はあげられるんです。ただ、やっぱりそれが持続的に続くかどうかっていう問題は、リーダー次第ですね。誰がやるか、誰が声をかけているかとかが一番難しいんですよ。コミュニティって、10万人都市の別府でもそうですけど、今、僕らが入っているところは、函館市やいわき市の人口約30万人が最高で、あとは、みんなもっと小さいんですよね。そうすると、コミュニティは、その地縁・血縁が強くなるんです。10万人都市とか、3万人の都市でやるというのがどういうことかと言うと、最初からこの人とこの人はコミュニティの中で仲が良いとか、仲が悪いとかがあるんですね。こういうとこが人間の原点なので、理論ではどうしようもいかないです。理論的に正しいと思ったことが出来ないのは、基本的にコミュニティっていうのはどちらかというと好き嫌いで決まっているからです。そこをうまくまとめあげられるやつじゃないと、途中で頓挫するんですよ。予算が下りてこなかったり、市長が変わった途端にバツになったり。だから、どちらかというと人間関係ですね。技術的な話もいっぱいあります。それは時間が経てば、精度があがりますし、理論的にも正しくなります。ただベースにあるのは、実はそんなものじゃないんです。コミュニティが衰退しているところから再生させるとか、成長させるっていうことのベースにあるのは、実はそこら辺の人間関係で作られるんです。どうネットワークしていくか、人間ネットワーク力をベースに持っていて、事が始まったり、終わったりするんです。非常に簡単なものですよ。誰でも出来るんですけどね。

あと、補助金取りのやり方なんかは、これもネットワークと関係しています。NPOは、補助金をもらわないと出来ない部分が多いですから。これは、ネットワークとアンテナを高くして、早くどこにお金があるかが探してくれば良いだけの話です。

それと、あと、ライターの問題ですね。何をどう書くか、どう表現するかは、ライターの問題です。ライターの問題は、各事務局、一番大変になってきますね。テクニカルな問題だけど、すごく大変です。ライターは、行政マンが一番得意なんだけど、なかなか行政マンがそういう仕事はしてくれないですよね。だから、さっき言わなかったけど、実は必要な人材のもう一つはライターです。きちっと的確にやる、プレゼンテーションをきちっと出来る人ですね。今、どうしてもプレゼンテーション能力がいるんですよ。10分位でA4一枚でやっていく力です。例えば、10枚で書いた補助金申請書があるでしょ。それを1枚にそれをまとめなきゃいけないんです。だから、サラリーマンでもそうだけど、そういう能力が高いというのは今、昔と違ってだんだん有利になってきていますね。でも、これはテクニカルな問題ですよ。基本的には、まちづくりにはテクニックや理論で動く人間なんて一人もいないんです。

そのうえで、やりたいことを理論的に1枚の紙にまとめていく、こういう能力がいるんですよ。こういうライター、プレゼンテーション能力というのは、NPOとかをやっていく上でやっぱり必ずいるんですね。オンパクでは、今、野上さんがやっています。

―今、野上さんの名前が出てきましたし、先ほど、人間のネットワーク力が大事だとおっしゃっていたので、スタッフの皆さんについてお聞きしてもいいですか?前回の門脇さんのインタビューで、門脇さんとオンパクの出会いは、門脇さんが急に仕事を辞められて、鶴田さんにメールをしたことがきっかけとおっしゃっていたのですが、野上さんと末田さんはどうやってお知り合いになったのですか?

野上さんは、1998年に竹瓦倶楽部を作った時からです。野上さんと、ヒットパレードクラブ(ヒッパレ)の今の副社長の栗田さんの2人に、竹瓦倶楽部の代表になってほしいとお願いしたんですね。前からまちづくり系の活動もやっていたので、竹瓦倶楽部作る時に、レールを敷いて、信頼の出来るお二人にお願いしたんです。

簡単な話、竹瓦温泉を行政が壊すと言った時に、「こりゃ大変だ」と思って、竹瓦を核にしようと思って。その前にも、竹瓦中心に500メートル以内のまちづくりを、そこだけ限定的にやろうとしていたので。そこを成功体験にしていけば、別府って良くなるだろうと思ったんです。歩ける範囲の観光地でもう限定的にやろうとしていたんですよ。そのベースとして竹瓦をベースとしたまちづくりをすることになって、竹瓦倶楽部というものを作るということになったんです。住民の反対に合わないように、筑紫哲也さんを呼んできて講演会(別府観光産業経営研究会主催)をやったんですよ。大分県の出身だから、安いギャラで来てくれたんです。言って欲しいことは、おじいちゃん・おばあちゃんに竹瓦温泉は街にとって大切ですということでした。動員力あるから、おじいちゃん・おばあちゃん達が来てヒッパレがいっぱいになりました。実は、おじいちゃん・おばあちゃんは竹瓦温泉は使いにくいものなんです。バリアフリーじゃないし、足が悪い人は階段降りられないので、シャワーがあって、バリアフリーで、日常使えるほうがいいじゃないですか。でも、あれはあのまま残すだけの、集客交流施設として、文化財としての価値ありますよね。あれが、普通のバリアフリーの温泉になっちゃったら、観光客は誰も来ないですよね。だから、まちづくりの拠点として、一番必要なのはこの街の中で竹瓦温泉ですね。

それが野上さんとの最初です。彼は、どちらかと言うと、もっと大人しい人だったんですね。本人に聞いてみて下さい。ただ、非常に優秀なところがあって、堅実だし、真面目だし、真っ直ぐ行くし。すれていないんですね。すれていると、町の人は見抜いてしまいます。そして、竹瓦倶楽部は自然にまち歩きを始めたんです。徐々にそこで、野上さんに一番光があたったんですよね。それで、オンパクをやるなかで位置づけが今みたいなことになってきたんです。事務とか、ライターの役割とか、いわゆる論理的に精査に組み立てるとかいうことですね。彼はもともと工学部なので、物事を詰めていくことが非常に得意です。もっとさかのぼると、野上さんは僕がやっていた旅館の研修生の3期生でもありました。昔、JTBで旅館の研修スクールのようなことをやっていたんです。

末田さんはもともと旅館組合にいたんです。事務局で使っていたんだけど、だんだん自分の能力に自分で気がついたんでしょうね。それで、自然にああいう風に企画のコーディネーターになっていったんです。野上さんと年も一緒ですしね。彼女がヨソモノで女性であったことも好結果を残せた要因ですね。

―そうして、今の4人が揃われたんですね。ドラマのようですね。

まちづくりはエンドレスですからね。ただ、ある意味で成功体験というのはあっという間に失敗体験に繋がります。さっき、地域も人間と同じだと言ったんですが、事業もそうなんですよ。環境に応じた事業でしょ。事業が、今はとてもうまくいっているように見えるけれども、それはその環境に適合しているからうまくいっているだけであって、次の打つ手を間違えたら、すぐぼろぼろになるんですよ。

―では、どのようにその関門を乗り越えていくべきなのでしょうか?

NPOは、非常に脆弱です。実は法的にも脆弱なんです。株式会社はしっかりしているけれど、NPOは脆弱すぎるような組織です。制度とか組織的には何も成熟してないんです。そういう中で、事業規模を膨らましていくと、一つボタンをかけ違えるとガタンっていきます。だから、それを安定した企業のようにしなくてはいけないんですね。例えば、ある程度安定した雇用の場にしていくとかということです。今は、緊急雇用のお金があるから雇えるだけで、実力では全く雇えないんですよね。企業は違うでしょ。

これだけ考えても脆弱ですよね。だから、ビジネスモデルとか、公益型の組織の基盤を作っていかなきゃいけないのかということをかなり実験的にやっていると思った方が良いです。事業はあたかも成功しているかのように見えるけれども、実は極めて寄って立つ所は脆弱で、もう明日無くなっても不思議ではないんです。だから、社会の中でNPOや社団法人といった組織が確立出来ていくのかっていうのを、実は実験しているんですよ。どんな風になるのかは、まだわからないです。

アメリカみたいに比較的NPOが社会的基盤の中で制度的にも仕組みの中にきちっとはまり込んでいるわけではないですからね。アメリカは、NPOに就職したい子っていうのは大卒でもすごく多いです。一般企業よりも多くなりつつあるという位です。キャリアアップにもなるし、労働市場も自由ですから。キャリアアップしていければ、どこでも働けますよね。そういう意味で、アメリカの場合は確立されているけど、日本の場合はまだまだです。どこに行くんだろうっていう感じですよね。一応、民主党はそっちの方向にはあるとは言いますが。そうじゃないと、若い人が就職しようとしないですよね。優秀な人間は雇うのにお金がいるんです。優秀な人間がいないと組織って大きくなれないし、給料も上がらないんですよ。家庭が出来ると、ボランティア意識だけに依存するっていうのは出来ないんです。独身の人は、月十何万でもいいやとか、手取り14~5万でもいいやっていけますが。家庭が出来て、子どもが出来ると絶対言わないですからね。いくら稼げるかというのは、極めて重要な話なんです。だから、きれいなボランティアでやっている訳でも何でもないですよ。そこら辺は、きちっと社会の中にはまり込んでいかないといけないんです。ただ、要件を一つだけ言うと、それは「高い志」です。

―では、それは今後の課題ですか?

日本の中で必要とされることだろうし、必ずそういう組織が必要になってくると思います。ただどうやって、その枠組みを作っていくかっていうのは試行錯誤ですよね。この10年、オンパクを試行錯誤でやってきたのと一緒です。だから、次が見えないです。やりつつわかっていくんですね。誰かがヒントを与えてくれたり、人が刺激し合って、新しいアイディアが生まれて来たり。そういうことだろうと思いますね。一人で考えていても絶対に出来ないです。

―では、これからのやりたいことや、オンパク・ジャパンの拡大についてのお考えを聞かせて下さい。

オンパク・ジャパンの場合はね、やっぱりどこかでITモデルがいると思いますね。

―ITモデルですか?

モデルとしては最初にビジネスモデルとして書いたのはITモデルですからね。いわゆる共通基盤のITです。今、ASPサービスをやっていますけどね。ITって言っても、共通基盤のITの中でのウェブシステムです。ウェブシステムをどう構築して、そこに各々の顧客のエクスチェンジをやるかっていうのがとても重要かなって思います。別府には顧客が5,500人いて、函館に2,000人いて、熱海に3,000人いるとかですね。それぞれが顧客を積み重ねるんですよ。そこに向かって、情報発信していくんです。ある意味顧客を囲い込んでいる訳ですね。今は、囲い込みモデルを作らなきゃいけないので。そこで、集客交流人口をどう増やしていくかです。少なくとも宿泊交流人口を増やす一翼にしていく必要があるんですね。地域にとっては、それは外需でありますけどね。内需っていうのは行政単位の枠の中で動いていて、大分市から来ているとか、別府市内の人であるとかのことです。これは良いんですよ、全然問題ないです。ただそれだと、エリアの外に経済が広がらないですよね。お金を回しているだけですから。だから、エリアの経済発展には、外需の部分がどうしても必要なんですよ。そうすると一番良いのは、たくさんオンパクやるところが出来て、顧客のシステムが同一システムで出来ていれば、お互いにいかようにも使えるということです。やっていることは思想的には一緒なので。ウェブシステム一緒にしておけば、同じ様に顧客を獲得していけば、そこである一定の囲い込んだ中での情報提供が出来るから、極めて効率の良い集客交流が出来るんですね。今、マス媒体でやろうと思うと、テレビなどにタダで取材に来てもらうかしかないんですよ。全国紙で雑誌1ページを使える予算はどこにもないわけですね。

事業者さんがどんどん出来てくるっていうのはとても大切で、キーポイントとしてそれを今やっています。今やっていることは、とても正論で正しいですが、次やるのは、やっぱり外国人観光客(外客)部分なんです。今、国と一緒にやっている事業が、DMC (Destination Management Company)の事業です。外客受け入れのDMCが比較的利益率が高いので、それをベースにしていく手もあります。ただ、それは将来の話です。

―先程、1990年代の衰退を何とかしようという思いから街づくりやられてきたと聞かせていただいたのですが、何十年とやられているモチベーションはどこから来るのでしょうか?

宿命。もうそれしかないです。好きでやっている訳でも何でもないです。別に好きでやっている訳じゃなくて、これは自分が生きている上でのなんかこう運命だなぁと思います。よく言うけど、そうなんですよ。だって、好き嫌いで20年以上もこんなこと出来ないです。そう思わざるを得ないですね。「地霊」に呼ばれている感覚です。

結局ネットワークの中で、色んな人がネットワークに引っ掛ってきますよね。それで、付き合いを深めるでしょう。そうすると色んなことを教えてくれるんです。一所懸命何でもやっていれば、誰かがどこかで見ていてくれて、またどこかで知らないうちに助けてくれたりしているはずなんです。自分の能力だけで生きているのではなく、普通の能力の人間をたくさんネットワークしているからやっていけるのではないでしょうか。

ただ年齢だけは気をつけておかなきゃいけないですね。だんだん過去に固執しだすと、やっぱり次の手が打てないんですよね。だから、出来るだけ過去は全部忘れて、記憶の中から削除したほうが良いと思います。成功体験は出来るだけ消していって、まだやり残したことが山程あるって言う状態の方が、頭の中が活性化します。僕は57歳だけど、もう終わったって思わないことですね。

どこかで終わるんでしょうが、終わらせる時が難しいんですよね。人間引き時が一番難しいって言いますから。だから、一番良い時に止めるのが一番良いんです。イベントなんかもトップで一番良い時にポンと止めた方が良いんです。ずるずるやっていると、イベントとしての価値がどんどん少なくなってくる訳ですよね。それで評価がきつくなってくるでしょう。だから、止める時は人が集まらなくなって、どうしようもなくなって止めるんです。こんなイメージの悪い話ないですよ。イベント型で人工的に作ったイベントと言うのは、やっぱり一番良い所でポンと止めるのが一番です。

―それは、オンパクにおいても同じことが言えますか?

オンパクなんかもそうです。時代に合わなくなったら、即止めないといけないですね。止めて困る人がいっぱいいれば、また別なのですが。その状態が一番良いんですよ。止めても誰も困らないという状態だったら、それはもうやっている意味無いですもんね。公益型なので、企業と違いますからね。だから、誰に恩恵を施しているのかというところが、実は一番大切なんです。自分達で自画自賛して、公益型なんていうのはアホですよね。だから、やっぱりいかに多くの人に公益型NPOが、オンパクっていう手法が役に立っているかっていうことを認知してもらって、止めるっていったら、皆が止めないでと言ってしてくれる位の事業になっておかないといけないです。たださっき言ったように、時代が変わると絶対にどこかでいらなくなりますよ。一生続くなんていうことはないです。長くても30年位、短ければ15年位ですかね。ここがある一定のコンセプトを持った事業の限界だと思います。時代の流れの中では、今は一番良いかもしれないです。ピークになったら、後は下がるだけですから。だから、さっき言ったように止め時が難しいんですね。その時は、次の手を考えないとね。だから、いつも次の手を考えています。

―とても勉強になりました。大変貴重なお話をありがとうございました。




(インタビューをした個人的な感想)
私が鶴田さんにお会いしたのは初めてだったのですが、始めの印象は噂通りの“優しい人”です。しかし、インタビューをしていて受けた印象は、優しさの中に秘められた別府のまちづくりに対する熱い思いを持った、正に“街づくりのカリスマ”でした。
聖夜に毎年行われるクリスマスHANABIファンタジアは別府の数あるイベントの中でも、私が大好きなイベントなのですが、鶴田さんはこのイベントに対して意外な評価をされていました。高い集客率と、あの賑わいからして誰もが100パーセント成功のイベントだと考えるところ、なんと鶴田さんは「成功とは言えません」と断言。瞬間的なイベントで、別府の本質を変えるものではないとのこと。「ううん、なるほど」と呻ると同時に、こういうところが町づくりのカリスマだと感じさせるのだろうと思いました。
 別府のまちづくりに対する熱い思いと、それ故の冷静すぎる程の評価をされる鶴田さんがいる限り、別府のまちは進化し続けるでしょう。





  1. 2010/05/06(木) 16:43:01|
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住田美千代さん(NPO法人 吉備野工房ちみち)

岡山県総社市でオンパク事業「みちくさ小道」を手掛けている住田美千代さん




NPO法人 吉備野工房 ちみち 理事
住田 美千代さん

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今回は、NPO法人 吉備野工房ちみちで理事をされている住田さんにお話を伺いました。代表理事の加藤さんも同じ場にいらっしゃったので、質問をするなどして参加してくださいました。


このインタビューは、平成22年1月17日に吉備野工房ちみちで立命館アジア太平洋大学4回生の石田奈々が行いました。



-それでは、インタビューを始めます。
加藤さんとは元々お知り合いだったんですか?


元々子どもが同級生で、PTAの役員で一緒になったのが知り合ったきっかけです。

-では、住田さんはどの辺りから「ちみち」の活動に関わってこられたんですか?

一番最初のコンサートからだと思います。

-そのコンサートというのはどういったものですか?
どういう経緯でされたんですか?


ちょうど17歳の犯罪が問題になっていた頃、うちの上の子が同じぐらいの歳だったんです。中学校も荒れていたし、お互い (加藤さん)の子たちはいい子に育ってたんですけど、「なんで子供たちがこんな悲しい生き方をしてるのかな」って思った時に、それは大人の責任かなって思いました。大人の一生懸命生きてる姿が見えないから、子供たちがこんな生き方しかできないのかなって考えました。(単純ではありますが…!)
でも自分たちは何も出来ない…歌ったり踊ったり出来ないし(笑)、「じゃあ何が出来るのかな?」って考えた時、娘たちが吹奏楽をしていた事もあり、「音楽は、世代も性別も国境も越えられるもののひとつじゃないか!」ということでコンサートを企画しました。

-その時、何人で企画されたんですか?

一番最初の立ち上げは3人でした。こんなこと言うと加藤さんに怒られるかもしれないけど、実は私、コンサートの立ち上げは、加藤さんが岡山で活動している中の一貫で、そのお手伝いぐらいかなぁと思って参加したんですよ。ところがどっこい、「え、3人で一から立ち上げるの?」(笑)って言う感じで、他にも人集めなきゃ、手伝ってもらわなきゃって。

「元々3人で始めたから、赤字になったら一人30万かな~!?」みたいな覚悟はその時しましたけどね。何せ1000人の会場ですから、周囲のみなさんから「ぜったい失敗する!」とお墨付きを頂いてました…。

-赤字覚悟でもその企画を実行されたんですよね?

そうです。元々は「私たち大人が一生懸命やってる姿を見せよう!」ということで始めたわけですから、途中でやめるわけにもいかないですよね。

-そのコンサートは、当時チケットもあまり売れないという中で頑張って1枚1枚手売りをされて、蓋を開けてみたら大盛況だったとお聞きしました。住田さんはその後も活動を繋げていこうという気持ちでいらっしゃったんですか?

ちょっとくじけて、辞めたいなっていう思いもあったりしたんですけど、でもその後も何回かそういうイベントはしました。

加藤さんと私の分かれ道っていうのが、加藤さんはそれをずっとやり続けてたけど、私はちょっと逸れて子供の方に力が向いたんです。もちろん加藤さんも子育ては一生懸命してましたよ。でも両方両立してやってたんだろうと思いますね。そこが私と加藤さんの違うところでしょうか?

-そこで逸れながらも戻ってこられたのは、なぜですか?

逸れながらも戻ってきたのは…なんなんでしょうね(笑)。
我が子だけでなく、世界の子どもたちが生き生きと元気に暮らせることを心のどこかで
ずっと願っていたからだと思います。そんなふうに言うと何だか大層なことのように聞こえるかもしれませんが、本当に漠然とそんなことを思っていました。

-加藤さんが走ってるのも見られてましたよね?

うーん、走ってると思って頭にはいつもあったんですけど、彼女は彼女、私は私みたいな部分はいつもありました。だから…なんで戻ってきたんだろうなぁ…?(笑)。

-何かきっかけがあったんですか?

そうですね…。加藤さんから、「NPO設立するから一緒にしない?」って声をかけられたことが一番大きいかなと思います。その時は何か自分に出来ることがあるかもしれないと思えましたから…(笑)。

-その時迷いはなかったんですか?

迷いもありました。今は世の中もこんな経済状態で、うちも自営業なので厳しい状況ですから。自分の本来業務とNPOの仕事、中途半端な関わり方がどちら側にも迷惑をかけていることが今でも一番のストレスです。NPOではなかなか経済的自立は難しいですから、今のところこの状況を大きく変える勇気というか、決心がつかないのも正直な気持ちです。腹をくくれないんですね。自分の立ち位置は自分で決めるしかないのは頭でわかっているんですけど…。

一緒に活動する以上内容を把握し説明責任をはたさなければならないのですから、自然にNPO活動にさかれる時間は増えてくる。わかりきっていることがなかなか出来ず、イライラしている自分がとても情けなく思えてくる。時間が取れないと、内容について報告だけを聞いてなんとなくわかったと、自分を納得させるんです。

-確かに、話を聞くことと伝えることは違いますよね。

話だけ聞いても伝えられないんですよ。頭の中では理解していると思っていても、いざ聞かれると、内容が自分に落ちていないので、表面上のことしか言えなくて。その辺がいつも苦しいですね。

-だけど厳しいながらも出来るだけ現場に行こうとされてますよね?

はい、なるべく現場に行って、見たものや聞いたことを自分に落とそうという意識でいます。経済面の方はなるべくお金を使わないようにすることで頑張ろうと思ってますけど(笑)、なかなか厳しいですね。

-本業とNPOと、住田さんご自身の中で占める割合はどのくらいなのでしょうか?

半々…いや、本当はNPOを前面的にしたいくらいです。
でも、いまは本業が7でNPOが3ぐらいかな。

-本業の方の比重が高いという状態なんですね。
話を変えますが、オンパクの手法を知られたのは、加藤さんと一緒に研修に参加されてですか?


一緒に暮らしている義母が高齢なので、家をあけると言う事がなかなか厳しいんです。
だからほとんど研修も参加してない状況でした。

-研修の内容は、加藤さんから話を聞いて、自分に落とすという感じですか?

そうです。いつも話を聞いて、こうこうだって表面だけ字面を追って、という感じです。でも全然自分に落ちてなくて、なんかやらされてる感が強かったですね。

-では、住田さんがオンパクを知ったのはいつですか?

オンパクを知ったのはちみちへ来てからですけど、それも自分の中ではすごい胡散臭いものだとずっと思ってました(笑)。「何でこんなことしてるんだろう?」、「鶴田さん胡散臭いからなんか話したくないな。」みたいに思ってました(笑)。

昨年(2009年)熱海での研修に加藤さんと参加したのですが、研修自体も胡散臭いし、なんか「加藤さんマインドコントロールされてんじゃないの?」って思って。「客観的に見ると、加藤さんこの集団ちょっと怪しいよ?」って(笑)。研修中ずっとそんなふうに感じてました。だから、研修初日の東京には行ったんですが、そのあと結局熱海には行かず、途中で帰ってしまいました。

-オンパクに対する「胡散臭さ」はいつ消えたんですか?

香川の全国まちあるき観光サミットに参加して、実際鶴田さんにお会いしました。鶴田さんもパネリストで加藤さんと一緒に舞台にいらっしゃって。その後の親睦会でお話して、本当に「鶴田さんって少年みたいな人だな」って感じたんです(笑)。そう思ったら、全体が「ああなるほど」と自分の中に落ちてきました。と同時に、加藤さんがやっている「みちくさ小道」の意味が自分の中に落ちてきたんです。

※全国まちあるき観光サミット~てくてくまち歩きで発信。まちは宝の山だ!~:
2009年12月12日(土)に香川で行われたサミット。まちあるき観光を通して、まちづくりに取り組んでいる団体相互の交流を促進するとともに、情報交換することで相互のレベルアップを図り、それぞれの地域への波及効果を期待する目的で行われた。
てくてくさぬき/香川まちめぐり::全国まちあるき観光サミットhttp://www.tekuteku-sanuki.jp/pickup/summit.html

-じゃあそこから本格的に…

そうですね、やるなら本格的に関わりたいなと思い始めました。
だから本当に最近なんですよね(笑)。

(加藤さん)それと同時に、住田さんは「ちみち」から出て、市の観光プロジェクトとかの委員になってるよね。観光連盟の地域の情報レポーターにも、代表として行ってもらってる。


※総社市観光プロジェクト:観光客の誘致拡大と総社市の魅力を全国に発信するため、平成20年(2008年)5月17日に設立された事業。
約2年間にわたり協議を行い、議論を重ね、

○総社市の観光についての基本的考え方
○総社観光宣言
○分科会からの具体的事業提案
○観光誘致キャンペーンキャッチフレーズ
○観光振興を実現するための取組              などをまとめた。

※岡山県観光連盟地域情報リポーター:住田さんは、岡山県観光連盟により平成21年(2009年)3月1日任命をうけ、地域の郷土色溢れる独自の情報をリアルタイムで発信、魅力をPRして、地域の観光振興につなげていく役割を担ってきた。



正直、そういうことに参加するのが大嫌いだけど、「ちみち」の代表として、仕方なく?参加してるんです(笑)。おかげさまで、さまざまな出会いをいただき、いろいろな事につながったので、今は「やらせていただいてよかった」と感謝しています(笑)。

-今も委員やレポーターの活動をされてるんですか?

一応両方とも任期がこの3月までなんです。「ちみち」の誰かが私に代わって出てくれればいいなって(笑)。そうやって繋がっていけばいいなって勝手に思ってます。

-では「みちくさ小道」のイベントへ話を移します。
「ちみち」というNPOが成立して、第1回目の「みちくさ小道」(2008年秋)をやる時はどんな思いでしたか?


その時は、もうやらされてる感でいっぱいでした。加藤さんの具合いが悪かったり、娘の病気、実家の母の死で、いっぱいいっぱいでしたから。気持ち的に地獄のような日々でした。私個人的には、イベントなんてやってるどころじゃなかったんです。
でもみんな頑張ってやってるし、人員が足りないのはわかってるので、やらなきゃしょうがないかなって。始めた以上知らん顔も出来ないし、みんなが苦労してたのは見えてたので。

-そんな過酷な状況だったんですね。でもそんなご苦労のある中で第1回目実施されて、プログラムも企画されてましたよね?

横田さんの八十八ヶ所のプログラムを企画しました。あれは一番最初からやりたいなって思ってたことだったんです。ずっと横田さんと話してきましたから。

※横田さんの吉備路八十八ヶ所巡りプログラム:吉備路三須地区に残るお地蔵さん八十八ヶ所を、総社の名物ガイド横田さんと一緒に歩くまちあるきプログラム。
ジャパン・オンパク 公式HP/チャレンジパートナーズ 横田清巳さん
http://japan.onpaku.jp/partner2/?disp_group_id=17&disp_partner_id=24


-企画立ち上げはいかがでしたか、大変でしたか?

横田さんがいろいろな手配とか資料の製本とかほとんどご自身でしてくださったんです。だから私は側にいるだけで、やることといったら連絡ぐらいで…。すごく楽でした(笑)。

-元々お知り合いだったんですか?

私はここへ来てからの、NPOが立ち上がる時からの知り合いでした。
私たちの事務所の大家さんでもあります。

-横田さんが八十八ヶ所に詳しいということは知ってらっしゃったんですか?

石仏に詳しいってことは知ってたんです。それで、「八十八ヶ所石仏(お地蔵さん)があるんだけど、今整備しないと消えちゃうよね」っていう話は「ちみち」の事務所でちょこちょこしていたので、いいチャンスかなって思いました。

-横田さんという貴重な人材の資源と、八十八ヶ所の石仏(お地蔵さん)という地域の資源が結びついて出来たプログラムなんですね。
先ほども話されたような大変な状況の中、第1回目終えられてどうでしたか?


「あぁやれてよかった!」と思いました。地域の人たちも、自分が知らなかった地域の様々な部分が知れたって喜んでくださっていました。プログラムを実施する前のお掃除も、地域の人たちが自主的にしてくださったりということにも繋がりました。

-それが次への原動力になったり、今までやらされてるっていう意識が少し変わったりしましたか?

まぁやれば楽しいっていうのはあるんですけど、現状としては、やっぱり次も参加しようかどうかっていうのは、まだ随分迷ってました。

-まだ揺れてるという状態だったんですね。

そうですね。

-その後、第2回目の「みちくさ小道」(2009年夏)もやられましたよね?
「やってください」ということでやらざるを得ない状況だったとはお聞きしましたが…。


そうです。自分が何かプログラムを企画すると、自分が担当にならざるを得ないっていうのがあるじゃないですか?だからなるべく企画出したくないな…みたいなのはあったりしました(笑)。でも一応何かは出さないといけないなっていう、あの時は自分が何を担当したのかも全然覚えてないような状況ですね。まだずっとやらされてる感じがありました。

-それで、次、第3回目(2009年秋)ですよね。
その時のご自身の気持ちの変化というのはいかがですか?


「やらなきゃいけない!」っていう気持ちは大分強くなったし、楽しいっていう感覚はこの3回目には感じてました。自分が本当にやりたい企画をすれば、自分で責任もって出来るかなっていう気持ちは3回目ぐらいから出てきたかなぁと思います。自分が参加してみたい企画を自分が考えればいいんだと。

-その時に気付けたんですね?

はい、気付いたかな。

-ちょっと楽になりましたか?

そうですね、ちょっと楽になりました(笑)。

-第3回目、「韓国料理とハングルレッスン♪」という企画を出されましたよね?
パートナーさんの徐さんとも元々お知り合いだったんですか?


彼女とは元々知り合いです。本業の会社に彼女もいたんです。彼女は本来もっといろんなことが出来る人なのに、そこで悶々としてるのはよくないんじゃないかって思ってたんです。だからプログラムに参加することで彼女自身の道が広くなればいいかなっていうことで、声をかけました。

※韓国料理とハングルレッスン♪プログラム:「韓国文化を知り、お隣さん同士もっと仲良くなりましょう」ということで企画された、韓国料理作りと、ハングルレッスンも出来る、韓国好きにはたまらないプログラム。
みちくさ小道 -ならう http://www.kibino.jp/modules/program7/index.php?id=15


-その時は市の掲げる「多文化共生」というのは全く意識せず?

※多文化共生に向け総社市職員による委員会発足
市職員で構成される総社市多文化共生推進検討委員会の初回が、市役所で開かれ、総社ならではの多文化共生へ向け、研究・協議を始めた。 市長は、「多文化共生の成功事例を作るんだという意気込みをもってやろう。外国人への就学や生活支援、コミュニティへの参画などのプログラムを現実のものとするため、体を張ってやっていこう」と、委員に檄を飛ばした。
総社市HP 市長の動き 2009年8月 http://www.city.soja.okayama.jp/shitumushitu/shityou-top/2009_08.jsp

全く意識してなかったですね、実は。
単純に彼女が活躍出来るような場所があればいいなっていうのと、私の職場にも、同世代で、韓国のドラマとか言葉とか韓国料理に興味ある人っていっぱいいるんですよ。だからこれを企画してもたぶん人は集まるんじゃないかと思いました。あと、総社商店街の宮筋文化堂を活かせる企画がないかなと思ってたので、ぴったりでした。

※宮筋文化堂:東総社駅から徒歩15分のところにある、人と文化が交流するコミュニティカフェ。「ちみち」としての営業は今年の2月で終了しています。コミュニティカフェ 宮筋文化堂 http://blog.canpan.info/miyasuji/4


-実際ご自身が企画されたそのプログラムにも参加されたと思いますが、参加してみてどうでしたか?


全体を10とすると、たぶん彼女の当日の下準備が8割だったと思うんです。その辺手伝ってあげられてなかったっていう点が、次回の課題でもあります。でも彼女自身の友だちが2人アテンドとして手伝ってくれたので、とてもやりやすかったし、彼女自身も安心して出来たんだろうと思います。

-全体の雰囲気はどうでしたか?

初めてのプログラムという状況でも、彼女がすごくパワフルで、みなさん本当に楽しんで帰っていただけました。プログラム実施後のアンケートで「楽しくなかった」と書いた人が1人いたっていうのは、私も見たんですけど、今思い返しても全然思い当たらなくて…。今も気にはなってるんですけど。

-彼女もおっしゃってました。全体の雰囲気はすごい楽しそうだったから、そういう風に感じてる人がいるとは思わなかったって。

ああそうなんですね。彼女もそこを見てくれてたんですね。私もアンケートの結果を渡す時どうしようかなと思ったんですけど、話をする時間がなかったので、そのまま渡してしまって。その辺の配慮がちょっと出来ていなかったなって思います。

-でも彼女なりにすごく考えて、「こういうことろがだめだったんじゃないか」と、きちんと分析しておられました。「次に繋がる準備が出来ていて本当にすごい」と、お話を聞いていて思いました。
しかもフォローが足りてないというところも、「ちみち」として気付けたんですよね?


そうですね、気付きました(笑)。
そのまま渡すのもどうかなと思ったんですけど、その時はつい渡してしまいましたから。

-話を「みちくさ小道」に戻しますが、3回終わってみていかがですか?

形が本当に見えてきたと思います。本当に多くの方の「やる気」が育っているし、次に繋がってきています。「みちくさ小道」自体では利益につなげるのは難しいけれども、例えば商店街の中を歩くようなプログラムを企画すれば少しは商店街が活性化するように繋がっていくんじゃないかなっていうような、将来的な展望は出てきたかなって思いますね。
「みちくさ小道」の講師をされてから個人的に講座に繋げていらっしゃる方もいますし。

-そうやって繋がっていくとやりがいがありますね。これから楽しんでいけそうですか?

楽しんで…いきたいんですけどね。現実的な問題を考えると、ちょっと、まだ100%楽しめるという感じでは…。

(加藤さん)その状況を整理してくださいって言ったら変だけど、どうしていくべきか、どうしたいか、どこが糸口になればちょっとでも変化がありそうな感じなの?そういうのは全然ないの?

うーん、自立まではいかなくても、助成金とかで補える可能性があれば、会社を辞めてちみちの活動に専念できるかなぁ!?という思いは半分くらい頭にあるかな。(中途半端でどちらにも迷惑をかけている状況から抜け出したいという気持ち)

-NPOの存在価値ってすごく高くて、ある意味公的役割を担っているのに、周囲の認知度がまだまだ低く、やっぱりそれだけでやっていくのは難しい状況じゃないですか。そういうのを変えていけたらいいですよね。

そうですね。変えていけて、人件費という経費が出るのが当たり前っていう考え方が理解されるといいんだけど。まだボランティア団体みたいな認識が世間一般であって、「なんだ、あの人たち給料もらってんの?」みたいに言われたりするじゃないですか。ちゃんとやることやればいいから、「給料もらってんの?」って言われてもいいんですけどね。していることの対価としてきちんと給与がでるようになればいいと思います。
家庭の事情が理事になったときとずいぶん変わってきていますから。

-状況が大きく変わってしまいましたもんね。

状況がこんなに変わるとは、自分でも予想もしてなかったので。

-でも、それによって生き方を見つめ直したりとか…

そうですね、実はそうなってますね。

-そう考えるとすごいですね。

すごいですね、なんかね~(笑)。

-住田さんの置かれている状況は大変厳しいと思いますが、そんな中でも、これから「ちみち」でどんなことをしていきたいと考えていらっしゃいますか?

やっぱり自立できるNPOにしていきたいですよね。自立というのはもちろん助成金、寄付などさまざまな方法があると、この頃は考えられるようになってきました。その中で自分がやりたいことが出来たらいいかな。

-そのやりたいことというのは、具体的に何かありますか?

実は、私がもっとみんなに広めていきたいことのひとつに、コンサートや舞台があるんです。日本ではなかなか、音楽などの芸術だけで食べていける人は少ないじゃないですか。だから、音楽をやっている人たちが、いいものを創りながらでも生活していけるような形を作っていけたらいいな、とは思うんですけどね。いつも甘いと言われます。支えるには「お金」がいると…!!!でもまぁ夢はおっきくね。

後日談:このインタビューを受けた頃、アルバイトをしたりして生活を支えながら自分のやりたい事を続けていく生き方もありだと思うようになりました。「支えたい」なんて言ってましたが、おこがましいので、「応援する」に変わってきました(笑)。)

とりあえず自分の周りから。自分の周りにも、音楽を一生懸命やってる子どもたちがいっぱいいるんですよ。でも今見ていると、その子たちが実際音楽をずっとやっていけてるかといったらほとんど無に近い状況で、せっかくいいものを持ってても、それを表現できるような環境がないんです。

-そういう子供たちや若い人を草の根レベルからからサポートできるような、コンサートで自分のパフォーマンスを表現できる場所を作っていければと?

作っていきたいなとは思ってますね。まぁ夢の夢ですが(笑)。

-いやぁ、素敵な夢じゃないですか。
では、住田さんにとって「ちみち」はどんな存在ですか?


今はやっぱり、自分が生きていく糧ですよね、気持ちの上で。ちみちの活動をしてなかったら、どっかで荒れてたり、消えてなくなろうと思ってたかもしれないから(笑)。
でも、他のメンバーもそれぞれみんな結構辛くて、だから簡単に抜けられないなっていう思いは常にあります。

-状況は厳しくとも「みちくさ小道」を通じていろいろなことがいい方向に向かってるんじゃないかと思うんですが…。

うーん、そうですかね。今本当にいろいろなことが形に見えてきたので、頑張っていこうかなって思い始めています。

-もうやらされてる感は?

なくなったかな。腹をくくるのは自分で、誰のためでも、誰のせいでもない。
いつも最後に決断しているのは自分だと言い聞かせています。
そうすれば、誰かのせいにして逃げることはできないから(笑)。

-それだけでもすごい進歩じゃないですか!

ねぇ~大進歩ですね。
それでも何かと言い訳を探している自分がいるのも確かですけど…。

-市の反応についてはいかがですか?こちらもいい方向に向かってますか?

最初は本当に「何やってるの?」って感じでしたが、ここのところ私たちの活動の形が見えてきて、すごく協力的だと感じます。行政マンも個人的にはやりたいっていう想いの人がいっぱいいるのですが、立場上難しかったりします。だけど、個人としてやってくれるっていうのは本当に嬉しいし、感謝しています。

-そういう方たちとも協同して発展していけたらいいですね!

その通りです。

-この前の市役所訪問(2010年1月)でそういう未来は見えたんじゃないですか?

はい、見えましたよね!本当、見えました(笑)。

-それは大きいですよね。

大きいです。今回のこの研修は本当大きかったなって思います。

-ちょっとした積み重ねで様々な状況が変わっていくと思いますよ。

長いこと長いことずーっと自分のしていることが何なのかみえなかったのですが、ここのところ少しずつ芽がでてきたのかぁ?って感じられるようになってきました。
それは自分の周りに暮らす人達の、何気なく交わす言葉だったり!笑顔だったり!輝きだったり!

-何気ないところから「芽」を感じられるくらい、「ちみち」の活動が周りの人たちに浸透しているんですね。すばらしいです。
「ちみち」を始める前と後では出会う人の数というのに変化はありますか?


全く違うと思います。いろいろな研修や企画に参加させていただくだけで、出会いは計り知れないほど多くなっています。とても感謝しています。

-人と話すのが苦手とおっしゃっていましたが、人と出会う機会が増えたことでそれは変わりましたか?

本当に苦手なんですけど(笑)。でもまぁ一応人の前で話さなければならない機会が観光連盟とか観光プロジェクトの中で出てきたので、ちょっとは進歩したかなと思います。

-ちょっとずつでも進歩していけたら素敵なことだと思います。
では、話を変えます。住田さんから見る加藤さんとは、どんな女性ですか?


ああ…シャーマン(笑)!?
彼女は本当に尊敬とかそんな言葉では言い表せないですね。
みなさんにはきっと目立つところとか、華やかなところばかりが見えてるんだと思うんですけど。私は、いいところも悪いこところもたくさん見てきたし、裏の部分を一緒にすごしてきてるから。それが損なのか得なのかはわからないけど。
まぁ「みんなが思うほど簡単にここまできてないよ」っていうのはありますよね。
彼女にはすごく強い突破力があると思います。
それについていかずにはいられない何か…(笑)が、私をよんでいる~!!!
勉強家だし努力もしています。人知れず枕も濡らしています…(笑)。

-活動をしていく上で、ちゃんとそういう部分を知っている人が近くにいるって大切なことですよね。

そうですね。お互いね。加藤さんには、私の中をいろいろとついさらけ出してしまうんです(笑)。他の人には、自分をさらけ出すとか自分の中を見られるとか、すごく嫌なんですけど。面倒くさい奴でごめんない!オードリー(加藤さんの愛称)!

-ご自身はどういうふうに変わっていってると思いますか?

うーん、たぶん変わってはないんだろうけど、変わっていかなきゃなっていう風に意識したということでしょうか。

-それは最近なんですよね?

本当に最近ですね。香川に行ったのがいつだったかな?

(加藤さん)12月に香川に行ったことで大きく変わったよね。
まちあるきをして、夜も3次会4次会まで行って。あれは大きかったよね。
私たち飲み会嫌いでしたから…


私たちはああいうことには一切参加しないタイプだったんです。「お酒の席で言ったことなんて信用できないし」、みたいな…。でも参加したことで鶴田さんが少年だってわかったしね(笑)。鶴田さん、失礼をお許し下さい。
「人は一緒に食事をして、お酒を飲んで、本音で語れる」なんて基本的な事に今さら気付くおっちょこちょいです。これからはどんどん飲むぞ~!!!って、怖すぎですね(笑)。 

(加藤さん)それが一番大きな変化やね。

かもしれない。「オンパクなんて胡散臭いし、もう加藤さん変な宗教団体にはまったんじゃないか」と思ってたのに(笑)、今まで胡散臭かった部分が全部自分に落ちてきたので。

-それからまだ1ヶ月、なんですね。

そうですね。やっぱり加藤さんと一緒に行動してるといろいろなことが見えて、やってることの表面じゃない部分が見えてくるようになりました。だから、「参加しなきゃいけない!」って思ってます。
なるべく全てのことに参加したいと思うのだけれど、自分の経済的なことを考えると、本業の仕事にも行かなきゃいけないしっていうのもあって…。そこらへんがまだまだ自分に覚悟が出来てないんですよね。

-ジレンマですね。

そうです。それがいつ…納得し、腹がくくれるのか(笑)。

-先ほど、本業と「ちみち」の比率が7対3っておっしゃってたんですけど、一週間でいうとどういうスケジュールなんですか?

一週間でいうと、基本的には月から土までは、朝8時半から17時まで本業の仕事ですが、現在は残業のため、夜19時まで仕事をしています。
その合間をぬって、どのくらいかな? 昼休みはなるべく、ちみちで! 何かある時はちみちに参加しようという感じです。ごはんをここで食べながらMTGに参加したりとか。
(スケジュール帳を見せていただきながら)でも結構これだけちみちのことが入ってるんですよ。3て言ったけど、それより多いかもしれないですね。

(加藤さん)あえて本業から抜けられないのは何で?

それは、安定してるからです。

(加藤さん)辞めるとどうなの?

辞めると? 辞めちゃったらもう仕方ないですよね。でも今の状況で行ったり来たりしてると、迷惑がかかるのも確かで…。私がいつ欠勤するのか?突然抜ける!とかが当てにされている時は特に。

-「安定」が占める割合は大きいと思うんですけど、

はい、大きいです。

-でも自分の人生は1度しかないから、私は好きなことをしてもいいんじゃないかと思うんですよ。自分がどうしたいかで決めないと絶対後悔するし、自分もしんどいしと思うので。すみません、学生の分際で偉そうなことを言ってしまって。

まぁ会社を辞めて、「ちみち」で3年なら3年の助成金が出たりしたらどうかなぁとは思うんですけどね。でもその先が…って言ってたら何にも出来ないですね。

(加藤さん)やっぱ仕事的に本業の方が慣れてるっていうのもあるよね?

そりゃ楽ですよ。

(加藤さん)こっちは一から自分で組み立てていかないといけんしね。

それはありますね、楽ですよね。慣れてるから、今のままやっていけばっていう。

-人生の分岐点を迎えてるという感じですね。

そうですね、分岐点ですね。どうしていけばいいのか本当に…。

-どうしたら抜け出せますかね?

本当にね。今のままじゃどっちも中途半端ですよね。

-でも気持ちは「ちみち」にあるんですよね?

はい、気持ちとしてはこっちに関わっていきたいっていうのはあります。

-「ちみち」の活動は悩ましい存在ですね。出会わなければ今までの生活でも…

そう、割り切っちゃってね。もう仕事は仕事としてやっていけたんだけども。

-出会わなかった生活と、この悩ましい状況を比較するとどうですか?
やっぱり関わってみてよかったなぁという部分はありますか?


関わってよかったとは思いますね。だからこそ気が付いたことはいっぱいあるし。
本当はこっちでやりたいけれども、今の状況がなかなか厳しいので。
そこが自分に覚悟がないとこですよね。覚悟です…結局は、すべて自分の覚悟です。

-本職とNPOをこなしながら、ちみちのほうを頑張ってもっと大きくしようというお気持ちは?

そういう気持ちはあります。ちみちを自立できるようにして、こっちで私自身も経済的に自立できたらいいなっていうのはあるんだけど…。

-あるけど?

あるんだけど、実際問題今の状況ではやっぱり厳しいですね。

-プログラムを通して、地域や人が育ち、輝いている姿を見る時は日々のことを忘れられて…

そうそうそう。やってるときは忘れるし、現場は楽しいです。でも家に帰れば現実をつきつけられますよね。
自分の本来業務の方に行けば、途中で抜ける自分は他の人に迷惑かけてるなというのがあるし。そういう時、「あぁ本当中途半端!!!」と思いますね。
最近本当向こうの仕事とこっちの仕事でほとんど主婦ができてないような状況で。
笑ってる場合ではないかもしれないです…(笑)。

-心休まる時間っていうのは…

なかなか厳しいですね。時々「あー」っと叫んで、「わあー」って泣きたいときもあるけど、それが出来ないですから。それが出来たら楽かもしれないですね。
本当に中途半端だから、加藤さんにも申し訳ないなと思っています。

-少しずつでも状況が変わっていったらいいですね。

そうですね。しょうがないですよね~人生の中にはこんな時もあるかな。
今まで本当に世間知らずで、のほほんとぼんやり生きてきたから。

実は私、リクルートの出身なんですけど、最近リクルートの人と仕事をする機会が多かったりすると、「ああみんな自立してるよな」って思うんです。東京に帰ってリクルートの同期の子たちと会うと、みんなやっぱりバリバリなんです。そういう姿を見ると、「ああ自分だけ何やってるんだろう」って思ったりもします。

-そんなことないですよ!住田さんは、なかなか普通の人ができないことを両立されてると思います。

いろいろな、なかなか普通出来ない経験!?をさせてもらっています。

-本職もNPOの仕事もこなすというのは、すごいと思います。

あっちもこっちも中途半端やってて申し訳ないなっていつも思います。

-悩んでる住田さんは格好いいですよ。

ありがとうございます。そうですね、こんな時もありますよね!まぁきっといつかは楽になる!これだけ苦しいと、楽になったときすごい楽かもしれないですよね。ハハハ。

人の心は毎日変わる、揺れる、動く。それは当たり前のこと。揺れてぶれたら、また中心に戻るよう修正すればいい、または思いっきり倒れて壊れてしまうのもありかも…。などと支離滅裂。考えすぎずに生きようと思いながら、日々こんなことを考えています。
背中を押し、手を差し伸べてくれる加藤さんに甘え、周囲のみなさんに多大なご迷惑をおかけしているかも…!!!それでも「ちみち」が受け入れてくれるので頑張りたいです。

-一緒に頑張っていきましょうね!

よろしくお願いします。ありがとうございました。

-こちらこそ、よろしくお願いします。ありがとうございました。




(インタビューをした個人的な感想)
ちみちの活動に100%の力を注ぎたくても現実は…という厳しい状況の中、悩み、ジレンマと葛藤しながらも、日々何足ものわらじをはいて頑張っていらっしゃる住田さん。そんな中でも「人生こんなときもあるよね」と前向きに考えようとしていらっしゃる姿に胸を打たれ、本当に格好いいと思いました。
今どうすれば一番いいのか、何が一番いいのか私にはわからないけれど、少しずつでも状況が変わり、いつか光がみえることを願ってやみません。応援しています!



  1. 2010/04/07(水) 09:29:01|
  2. オンパク 運営組織
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加藤せい子さん (NPO法人吉備野工房ちみち)

岡山県総社市でオンパク事業「みちくさ小道」を手掛けている加藤せい子さん                                                                                                                             
NPO法人 吉備野工房 ちみち 理事長
加藤 せい子さん

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今回は、岡山県総社市でオンパク手法を使って幅広い地域づくり・人材育成に励まれているNPO法人 吉備野工房ちみち の 加藤せい子さんにお話を伺いました。

このインタビューは、平成22年1月16日に吉備野工房ちみちで立命館アジア太平洋大学4回生の石田奈々が行いました。


-NPO法人吉備野工房ちみち設立の経緯を教えて下さい。


1997年に、酒鬼薔薇聖斗事件という、子どもを殺害してその首を小学校に置くという事件があったのを聞いてすごく衝撃を受けました。その時、世の中の風潮は、バブルがはじけて混沌としていました。大人達が子どもの無気力とか、無感動とか、無関心をすごく批判して、テレビなどの色々なメディアや周りが、子ども達が悪いんじゃないかっていって評論しているのを聞いた時、なんだか大人達が評論家になりすぎていて、「大人が本当に汗をかいたり、子供たちに背中を見せたりしているんだろうか?」というのを自分自身がすごく感じたんです。

それで、「そう言っている自分は、じゃあどうなんだろうか、私の娘にちゃんと背中を見せているんだろうか?」っていうのを自分に問うたんですね。その時、やっぱり自分もどこか安堵の中にいて、自分が出来ることだけをして、その中で子どものことをああだこうだって言っている自分に気付いたんです。

そこで、「やっぱり何かやろう、やらないといけない!」っていう気持ちが心の中にわいてきて、住田さんと守屋さんという、子どもが同級生のお母さんに「私たちも何かやろうよ!」って声をかけました。

【音楽コンサートの企画】

それから半年ぐらいは3人集まっては議論をして、「こうだよね、ああだよね…」って言ってたんですけど、「やっぱりなんかやらんといけんよね!」ということになり、私たちが好きな音楽を通して地域に発信をしていこうということで、音楽コンサートを企画しました。何もわからなかったんですが、岡山音響というプロモーションの企画会社の責任者の人と出会うチャンスをもらった時に相談をしたら、「アカペラのコンサートをやってみたら?費用もそんなに高くないから。」という提案をもらったんです。そのころアカペラっていうのはまだ日本でもそんなにポピュラーではなくて。テレビでアカペラの番組が始まるちょっと前に私たちはそれをやることになったので、やると決めてから色んな人に相談しました。

ただ大半のみなさんが心配してくださって、「アカペラなんか絶対2時間もたん」、「お客が入らん」、「総社でプロのコンサートをして成功したためしがない」と言われました。そういうことも含めて、いろんなことをアドバイスとしてもらったんだけど、もうこっちが縮こまっちゃって。プロモーターの方に「辞めたい」というような相談をした時に、カツンとやられました。「そんなんじゃいけない!」、「責任持って最後までしなさい!」って言われました。それで、また主要メンバーの3人で集まって、「どうする?赤字が出ても大丈夫?腹をくくれる?」って確認して、「やろう!ここまできたらやろう!」ということでやったんです。

コンサートを企画して、ちらしを作って、発送して…本番1ヶ月前になってもチケットが100枚しか売れてなくて、「どうしようか?」っていう状況になりました。本番2週間前でも200枚とか300枚しか売れてなかったんです。私、本当に悩んで、もし赤字が出たら80万だ90万だっていうのを頭で計算するじゃないですか。そうすると、初めての大きなイベントだし、怖くなって、寝られなくなったんです。そんな私を見た娘が、私の枕元に手紙を書いてくれました。「ママ大丈夫?前向きに頑張れば絶対うまくいくから。」という娘からの手紙を見て、なんかふっとふっきれたんです。
「失敗しても命までとられんし、赤字は払えばいい。それまで、精一杯やろう。どんな結果が出ても、精一杯やろう!」と開き直ってから、いろんな人と出会うようになりました。

-娘さんの一言が大きかったんですね。

本当にそうです。それで私がこうやって子ども達のためにっていうことを語っていたら、なんかよくわからないけど、とりあえずその熱意に応援をしてやろうっていう人がぽつぽつと現れて…本当に1枚1枚を手売りしていったんです。
それで、蓋を開けたら、みんなが「絶対成功せんやろう。」と言っていたのに、1500枚近く売れていました。「それでも800ぐらいしか入らんよ。みんな、たぶん付き合いで買っとるから…」と言われていたんですが、本番では1200人くらい入って、通路までお客さんが座っていました。

結果じゃない、私が何ヶ月で何をしたかっていうプロセスがすごく大事で、結果はもう私の中で吹っ飛んでいました。吹っ飛んだというか、重要じゃなかった。最初は結果にすごく囚われていて、収支が合うこととか、人が入ることが大切だと思っていたんだけど、そのプロセスの中で出会っていく人たちや経験がどれだけ尊いかっていうことを、自分自身が、そのコンサートで感じ取ることが出来ました。

【周囲の認識の変化】

それで、それを見た地域の人たちが私たちにびっくりしてたんですけど、ちゃんとやれたという認識が出来たので、いろんなところから声がかかるようになって。「こういうのがあるんだけど、一緒にやらないか?」って誘ってもらえるようになりました。そこから地域に出て行けるようになって、イベント企画をすることを繰り返していきました。

5年間くらい、毎年そういうイベント、コンサートをしていたんですが、だいたい満席状態になるのと、値段の割に内容が良いということでご好評いただいていました。10000円で10000円の内容だったら当たり前だけど、2000円だけど10000円くらいの内容だと価値があると、誉めてもらえました。それと併せて、だんだんやっていることが明確になっていき、地域でも私たちの存在が見えてきました。

【まちづくりに対する違和感】

そんなことをしているうちに地域活動に入っていくようになって。その中で、やっぱり男性と年配の方がまちを作っていて、まちをつくる意思決定権の中には女性、私たちのような少し年齢が若い女性が少ないなというのをすごい感じました。「これってやっぱりおかしいよな…」と思って、ジェンダー、男女雇用参画の勉強をしたり、コーディネーターやファシリテーテーが必要だということで、そういう勉強も、同時進行でしたりしていきました。

そんな風に時が流れていく中で、れとろーどというイベントを5年前に始めたんです。それも本当に楽しくて、アイディアが湧きあがってくるというか。仲間と一緒にやることが本当に楽しくて、また、ものを作る喜びを得たんですけども、それをやり始めたら、どんどんあっちにもこっちにも呼ばれるようになって。ボランティアなのか仕事なのかわからなくなったんです、別に仕事もしていたんでね。

※れとろーど:門前町として栄えた総社商店街を未来に受け継ぎたいと、総社商店街の宮筋から神が辻の間で、写真や絵画、彫刻、生け花などの展示、お茶席、街かどミニコンサートなどが行われるイベント。2005年から毎年、秋に開催されている。

-当時はどんなお仕事をされていたんですか?

えーっと、市の嘱託職員を。子育てもして、ボランティアもしてという中で、なんかもうそれこそハレーション気味になっていて。そろそろ整理をしたいと考えていました。行政の人は仕事でその場にいる、私たちはわざわざ時間を作ってその場にいる。このバランスの悪さもすごく感じていました。本当にボランティアではなく、事業型NPO、事業として、仕事として、今やっていることができたらいいなぁと感じていました。それで、3年前から、まちづくりの講演会に行くようになったんです。

【NPO法人ハットウ・オンパクとの出会い】

その時に、(NPO法人ハットウ・オンパク代表理事の)鶴田さんの講演会に誘われて行きました。そこでオンパクの話を聞いたんだけど、やっぱり「ああ温泉の話だなぁ」っていうのが第一印象で、「まあ、私にはあんまり関係ないかなぁ…」という感じでした。でも、鶴田さんの誠意ってものはすごく感じたんですね。すごいスマートだし、謙虚だし、紳士だなぁっていう風に感じて。それだけは残っていたけれど、もうハットウ・オンパクなんかどっかに(笑)…。どっかにというか、自分の記憶にはもうなくて。それでも模索しながらいろんな講演会に参加したりとか、LLPやLLCという勉強もしたり。「事業体は、株式がいいのかな、有限がいいのかな?」という妄想状態でした。

※LLP:有限責任事業組合(LLP)と有限責任会社(LLC)の特長は以下の3つ。
1)有限責任制:構成員全員が出資額を限度に有限責任を負う。
2)構成員課税(パス・スルー課税)が適用され、出資者に直接課税される。
3)出資者自らが経営(組織運営)をするので、利益配分を始め組織内部の取決めは出資比率に依らずに、組合員の合意で株式会社よりも自由に決められる。

有限責任事業組合(LLP:Limited Liability Partnership)は、経済産業省所管の「有限責任事業組合契約法案」により設立が認められる組織形態。特許や技術或いはノウハウがあるのに資金が不足している技術者や、特許を取得した大学教授が、組織力と資金力がある大企業と対等に事業を進める際に活用出来る。

LLPでは、任意組合が負う無限責任では無く、株式会社と同様に出資額を限度にした有限責任に留まる。LLPの組合員の間での利益配分は、出資比率に応じる必要もない。また、LLPには「法人格」がない。従ってLLPの段階での法人課税はされずに、利益配分を受けた出資者が、出資形態に応じて個別に税金を支払う。

LLC:有限責任会社(LLC:Limited Liability Company)は、法務省の会社法改正により利用可能になった組織形態。
上記の有限責任事業組合(LLP)とは異なり、有限責任会社(LLC)には「法人格」が認められている。従ってLLC自体に課税される可能性があり、結果的にLLCの段階と出資者(社)の段階とで二重課税が生じる恐れがある。またLLCは法人格を持つが故に、株式会社、合名会社並びに合資会社との合併等による組織改変が可能。

有限責任会社(LLC)・有限責任組合(LLP)について
http://www.hirakawa-tax.co.jp/tokusyu/llpllc/index.html


それで半年後に、またなぜか(NPO法人ハットウ・オンパク運営理事の)野上さんに会う機会があって。それも、朝電話がかかってきて、「野上さんという方が来られるんだけど、ちょっと人が居ないから話を聞きに来て。」と誘われて、「誘われたら断れないな…」ぐらいの気持ちで、また話を聞きに行ったんです。

前よりは少し具体的な話だったので、れとろーどをやっていくことでまちづくりに繋がっていくのかなぁって、なんとなく漠然とした雰囲気をつかんだ感じになりました。でも、まだなんとなく「オンパクは温泉の話だなぁ、温泉があるから出来る仕組みなのかなぁ…」という風に思っていました。そんなこんなしていたら、2ヵ月後は、なぜか知らないですが、別府に行っていました(笑)。気が付けば、別府の地にいたんです。

そこで、第1回のオンパクの研修に参加をしました。研修に参加をして、鉄輪を歩いたんですけど、「あ、なんか地元総社でもできるかな?」っていうのは、自分が体験して、体験した人たちの話を聞いて、思いましたね。


【NPO立ち上げへ】

そこで野上さんと話した時に、「ハンズオン支援をしましょう。」という話になりました。まだその時は任意団体だったので、「どうしましょうか?」という相談をしたら、「NPOがやっぱりいんじゃないかな?」ということで、NPOを立ち上げる準備をしました。立ち上げる準備と同時に、私たちはお金がないということで、国の事業をとっていくということも進めていきました。その時(2007年当時、ハットウ・オンパクでインターンをしていた)森君が支援してくれたんです。ずっと伴走してくれて、支えてくれたのは、やっぱりすごい大きかったですね。ちょっと上手くいえないんだけど、なにをしてくれる訳じゃなくって、でもなんかのときにはいつも背中を押してくれていました。

※ハンズオン支援:オンパク事業を行ってきたハットウ・オンパクのスタッフが現地に赴きハンズオン型で地域のオンパク立ち上げを支援すること。

JAPAN ONPAKU http://japan.onpaku.jp/start.htmlオンパク(地域の輝き見本市)人づくり事業 http://www.coara.or.jp/~sanken/onpaku_doc/brochure.pdf


NPOの申請の書類は、もう一人の事務の方と2人でずっと作っていたんですけど、申請直前に、ストレスと、初めてのことで心労も重なって、私の腕の中で彼女が倒れちゃって。救急車を呼んで、病院に行って、病院から帰ってきて、森君に電話をしました。「もうこれで出来ない。」と私は思いました。時間もないし、国の事業を出すための前倒しならもうあと1週間しかないという状況の中で、彼女が倒れたので。彼女がずっと書類を書いてくれていて、私はそれを読んでアドバイスしていただけだったから、「ああもう無理。森君、たぶんもう無理だと思う。」って電話したんです。そしたら一言、「せい子さん、やるしかないでしょう!」と言われて、「わかりました…。やるしかないか!?」って電話を切って、書類を貰い自分で最後の仕上げをして、県に提出しに行って出来ました。という、そんなすごいことがあって、申請は受理されました。

今度は、国の事業の書類をまた書きました。書いている時は申請を出しさえしたらいいと言われたんですけど、いざ出そうと思った3日前か4日前に、「これじゃあ受理出来ません。」って言われて。「うそでしょう?」と、その時は悔しくて泣けました。しかし諦めるわけにはいかないと思い、いろいろな方法を模索して、結局色々なネットワークの中ですべてが整い出来ました。そういういろんなことがありながら、吉備野工房ちみちというNPOが出来たんです。

-すごい経緯があったんですね。
では、オンパクの手法を初めて知ったのは、研修で別府に行った時ですか?

そうです。鶴田さんの話を聞いて、野上さんの話を聞いて、そして、最後はその現場に行って理解しました。
でも、当時のことを振り返ると本当に不思議で…。自分で動いていたんだと思うのですが、自分の意志とは別の力が働いて、クレーンみたいなもので運ばれた感じがしています。

-別府に来て、鉄輪のまちあるきや体験者の話を聞いて、自分たちのまちでもオンパクの手法を使ってまちづくりが出来るという風に思われたのはなぜですか?

うーん、まだ、やっぱりわからないけど、なんかできるんじゃないかなって。ある意味、直感かな。たぶん野上さんたちもそのへんは試行錯誤だったのかもしれません。
でも、人づくりっていうのは出来るかなという風には感じました。

-大変なことが起こりながらもNPOを設立し、実際に運営されてきたと思うんですが、初めの頃、周りの反応というのはどうでしたか?

冷ややか。それこそ、「えー」って。「オンパクの手法を真似ても…あそこには温泉という大きな地域資源があるから出来る。だから、総社では無理だ。」という風に、何度も言われました。

-当時はだいたいどれくらいの仲間がいたんですか?

ボランティアをやっていた人とか、現在もスタッフでいる山田さんとか住田さんとか、全部で10人位いたよね。だけど、スタッフにも「NPO法人化はもう辞めた方がいい。」、「もう無理、無謀だ。」って言われました。だけど、「出来る」って思ったから、私はもう無理しました。強制的にというか、やりたかったんです。自分の「直感」を信じてやってみたかったんです。「直感」っていうのは、「思いつき」という意味じゃなくって、普段から一生懸命考えて、資源をいっぱい頭に入れて、それが何かと結びついた時に「直感」で行動するという意味で、ちゃんと裏づけがある上でということです。その「直感」を信じて、それからどうするかっていう判断をしてもいいかなぁとは思いましたよね。

-みちくさ小道をやることになって、実際にプログラムを作ってみられたんですよね?

そうです。その時に森君が来てくれたり、ハットウ・オンパクのスタッフの末田さんや門脇さんが来てくれたり。あれは大きかったですよね。
やっぱりプログラムの名前を作ったりする方法がわかんないじゃないですか。タイトルが面白いとか、キュートとか、そういうのがわからなかったので、来てくださって本当に有難かったです。

-一から始めるのは大変ではなかったですか?

資源はあったし、ネットワークはあったので…この人とこの人を結ぶとか、この場所とこれをこうするっていう計画はあったんですよ。

-じゃあそれを実際に形にしていくという感じですか?

そうですね、はい。

-反対していた人が注目してくれるようになったのは、どのあたりからですか?

3回目(2009年秋のみちくさ小道)の25プログラムをやり始めてからかな。
25プログラムも無謀だと言われてたんですけどね。
最初(2008年秋)が14プログラムだったんですけど、それもぱっと見た時、「これ出来るん?」という感じでしたね。1年目のあの頃はすごい孤独でした。

-それでも1年目に14プログラムを実施されましたよね?
なんで「出来ない」って言われてたんですか?それは準備の段階で言われたんですか?

そうですね。準備では、やっぱり全体像が見えない。私も見えないことが説明できなかった。みんなは、私が見えないものはもっと見えないから、それ以上じゃないですか。不安しかなくて、それを解消する言葉が私にはなくって。とりあえずやることでしか解消できないと思ったから、頑張りました。だから、終わるまでの孤独感ていうのはすごかったかなぁ。それを森君がよく聞いてくれたのは大きかったなぁと思います。

-第1回目の「みちくさ小道」が終わった後、周りの変化というのはありましたか?

ありました。やっぱり14プログラムをやり遂げたということと、八十八ヶ所巡りのプログラムなどは形が見えたから、「こういう資源の活かし方が出来るんだなぁ」ということを、周囲のみなさんも自分自身も感じることが出来ました。
それと、講師の方が周りの方に『感動』を伝えてくれることが、大きいですね。そこが第一段階で、周りの人々も「別府じゃないところでもできるんだなぁ…」ってなんとなく感じてくださったみたいです。


kato03.jpg
「吉備野八十八か所めぐり」の模様


-では、第2回目の「みちくさ小道」が終わった時の変化はどうでしたか?

1回目のみちくさ小道を見た人が、「講師をやりたい!」と自分から申し出てくださったのは大きな変化ですね。「いつやるの?」という参加者の声もあったし、こういう地域資源の活かし方があるんだっていうのが行政の方にも理解されたんだと思います。ただのまちあるきとか、ただのイベントじゃなく、『人材育成』になっているっていうことをわかってくださったみたいです。

この前の(2009年秋の)25プログラムの時も、「出来ないだろう」と言われていたし、「この期間で、このプログラム本当に出来るん?」という周囲の心配の声が大きかったです。スタッフも、「出来るんかな、また無謀なことを…」って心配してました。

-加藤さん自身、心配はなかったんですか?

はい、なかったです。出来ると思っていましたよ。

-そう言いきれる加藤さんが素敵です。
では、「みちくさ小道」の立ち上げから第3回目が終わるまでの加藤さんの気持ちの変化はどのようなものでしたか?

1回目は不安で、でもやり遂げたいという気持ちでした。その時、実は、肩にカルシウムがたまって、高熱と激痛で肩が上がらず手が動かない、触っただけでも激痛がはしるという状態で。「休めないから、どうしよう…」って泣きながら、痛みと戦いながら、それでもやりました。

-そんな辛い中でもやり遂げて、どのように思われていますか?

やっぱり自信がついたかなと思います。これは「それでもあなたはやるんですか?」っていう自分への問いかけだと、自分で勝手に物語を作ったんです。本当に、産みの苦しみでしたけど、でも生まれた子どもはいい子でした(笑)。そう感じています。

-それは第2回目のモチベーションに繋がりましたか?

繋がりました。また、そこで新しいプログラムが8つも出来たからそれはよかったかなと思います。

-「みちくさ小道」を3回やってみての感想を教えてください。

「びっくり」、ですね。いろんなものに使えることを自分で実感したことが、本当に驚きです。ただのまちあるきとかイベントではなくて、男女共同参画にも使えるし、人材育成にも使えるし、商いのトライアルにもなるし、研修事業にもなるし、プロモーションにもなるし、使い方によって色々変化することに気づきました。

-パートナーさんの変化については、どのように感じられていますか?

最初私がお願いに行ったら、だいたい「無謀だ。」と言われてちょっとひかれるんだけど、私は何回も話しに行くんです。「こうはどうですか、こういうやり方だったらできるんじゃないですか?」っていう提案をしていく中で、最初は消極的で、紙の上でいつ何をしてこんなことが出来るっていう平面の会話なのが、話すことでだんだん立体になっていくのを感じます。それで、最後は一人歩きしてくれる、育っていくのを自分が感じるんです。
パートナーさんに会いに行ったら、勝手に地図が出来ていたり、本が出来ていたり、自分たちで研修会を組んでやっていたりっていう、すごい変化があります。そして最後は、お客さまが講師(パートナーさん)を育ててくれるんです。だから、パートナーさんがすごく良い顔をされているのを感じますね。

失敗しているプログラムは、やっぱりコミュニケーションができてないプログラムです。そういうプログラムは何か不満がある発言になります。「コミュニケーションは丁寧にやっていかないといけない」っていうのはスタッフに言っているんだけど、やっぱそこがまだまだ弱いかなという課題もあります。

-パートナーさんも何かしたいと思っているけれど、踏み出す機会がないことが多いですよね。その一歩をちみちのスタッフの人が押してくれるんでしょうね。

無理やりのほうが多いかもしれないですけど(笑)。

-ぽーんって背中を押してくれるから、入ってしまえば、そこからみんな開き直るという感じですか?

そうですね。

-「出来るんだ!」っていう…

自信になりますよね。

-自信につながって、始まってしまえば、何でもどんどんおもしろいものになっていきますよね。

背中を押す係が私たちの役割かなっていうのはすごく感じます。あとは、盛り上げてあげる。「大丈夫よ、出来るよ。」っていう話をすることと、不安なことは聞いて、私もできることはサポートするし、聞くことによって自分で勝手に解決してくださることもあるじゃないですか。そこのコミュケーションが一番大事かなぁと思います。

-多分、自分のチャレンジだと思ってくれる人たちがいるからこそプログラムが上手くいくんですよね。自分のチャレンジだと気づかない人たちっていうのもやっぱりいらっしゃいますか?

「やらされている。」という意識でいたり、「なんでこれしてくれないの?なんであれしてくれないの?」って言葉が聞こえてきたりするプログラムは、やっぱりうまくいかないですね。そこはスタッフもまだ育ってない部分もあるので、難しいところもあるけど、まあそれはそれかなぁっていう風に思います。

-そうですか。では、みちくさ小道が、地域で、現在どのような存在になっていると感じていらっしゃいますか?

まだまだ一部の人のものだから、もっと育てていきたいですね。地域よりも外の人たちの関心の方が今はまだ強いのかなって。外から見るほうが客観視できるのか、「なんかおもしろいことやっているね。」って言ってくださっています。

今まで、総社って通り過ぎるまちだったんですよ。ネットワークも倉敷からいきなり高梁にいったり、岡山から真庭にいったり、そんなイメージがすごくあったんだけど、最近は『総社』という形を少しわかってもらえたのかなぁと。他地域から「一緒にやりましょう!」という話がきたり、「おもしろい!」って言ってくださる人がいるので、そう感じています。

地域の中でどうか、地域の人たちがどう思っているかというのは、私も地域の中にいるのでまだまだ見えてこないんですけど、関わってくださっている人たちは変化をしてると思います。まだまだイベントにしか思ってもらえてないから、もう少しインキュベーションの場というのを伝えていく必要はあるかなぁと考えています。

-では、地域の人々の関わりを増やしていくことが、今後力をいれたい部分ですか?

そうですね。それはやるしかないし、やった人が変化をするものなので。
やっていく中で見えていく形でしか、なかなか相手には伝わらないじゃないですか。

何かをやりたい人が「みちくさ小道」と連携したいっていうのが地域からも出ているし、こんなプログラムをどうかっていうのもあるから、まあ少しずつやっていけたらなぁとは思っています。

-これから、NPO法人吉備野工房ちみちとしてどんな地域づくりをしていきたいとお考えですか?

「ここに住んでいてよかったなぁ」とみんなが思う地域になるようにしたいですね。去年は「耕す」というテーマで、今年は「種をまく」というテーマで活動をしてきました。来年は、種から芽がでて花が咲けばいいかなぁって。花が咲いた後に、また種が落ちてくれたら、また、そこから広がるじゃないですか。そういうイメージでまちづくりをしたいです。

だから、外からお客さんを呼ぶとかでなく、地域の中でまわるような仕組みを、経済にしても人にしても作っていきたいです。

-外から入ってくるというよりも、地域で始まって徐々に広がっていくということを目指しているということですか?

そうです。だから、内盛り?内から盛り上がるような地域にしていきたいです。「うちのまちってすばらしい!」って自信を持って言えるまちにしたいです。自分たちが愛する場所に総社がなればいいなって思ってます。そしてそこから繋がっていく、伝染していくようになればいいですね。

-話は変わりますが、みちくさ小道におけるプロモーション事業の場としての広がりについてはいかがお考えですか?

「みちくさ小道」をやることによって、今回パンフレットがオシャレだってすごく言ってもらって、デザインとか編集とか企画ができるということを認識してもらったんですね。それで県からレシピ集をつくるオファーがきたりしました。反対に自分たちも少し自信が持てたので、「冊子の仕事できますよ!」っていうことを自分たちでアピール出来るようになりました。

あと、コーディネーションという部分で、「25プログラムもコーディネートできるんだったら、吉備野工房ちみちにコーディネーションを任せられる!」とかっていうお話もきています。研修も話がくるようになっているかな。それはある意味、「みちくさ小道」というプロモーションの場があるからこういう色んな事業がきているのかなって思いますし、自分たちも自信になっています。

-すごく広がっていっているんですね。

なんかね、すごく広がっていっている気がします。
NPO法人の名前に、『吉備野』と名づけたのは、総社だけじゃないというイメージが私の中であったからなんです。同じ思いがあったらどんなところとでも繋がれるんじゃないかって思ってます。

だから、私たちができるのは行政区域だけじゃなくって。行政区なんて関係ないじゃないですか、NPOとしてはね。地域がよくなればいいので。だからここを中心に別府とも繋がるし、高梁とか新見とか真庭とか、四国とも繋がれるし、いろんな所と連携ができるかなぁって思っています。

-そういう構想もあるんですね。

そうです。構想ばっかり(笑)、妄想ばっかり(笑)。
香川や近畿、中国地方くらいはカバーして支部みたいなことができればいいなと妄想しています。それに、もうちょっと大学とか専門の方と連携したいです。吉備野工房ちみちの弱さが、実務というか、まだまだやることばっかりに追われているから、もう少し研究とかモデル開発になれたらと思います。そんな先生がいたら出会いたいなぁって思っています。

どう仕組みにしていくかが一番大事なんですけど。人材は揃っているし、ネットワークもあるから、それをどう繋げてやっていくか、ですね。まあでもやってみないとわからないから、次の人材研修でとりあえずやってみて、形にしていきたいです。私たちじゃなくって、その先にあるものを支援する仕組み、次世代のために使う仕組みを作りたいです。

あと、「みちくさ小道」をやったことによって、人の繋がりが出来ていったかなぁと思います。それで、メディアがすごく関心をもってくれているのと、彼らの「応援したい」という感じがとても伝わってきて、それが本当に嬉しいです。これも「みちくさ小道」のご縁だと思います。

-メディアに取り上げてもらえるとすごく大きいですよね。

大きいし、夕刊に「一日一題」っていうのを私が2ヶ月間連載したんだけど、それでまたちみちの信頼度が上がったのかなと思います。メディアにでるってことが、信頼に繋がるんですね。

-その連載がきたのも、やっぱり「みちくさ小道」実施からですよね?

はい、「みちくさ小道」です。だから全部「みちくさ小道」なんです。
事例発表もそうだし、来週、県の観光連盟でも発表させてもらうんですけど、誰に私の情報を聞いたんですかって聞くと、県の職員さんが話してくださってたり、推薦してくださったりしてるんですね。だから、「みちくさ小道」がご縁でどんどん広がる「みちくさ小道」という感じです。

-すばらしいですね。加藤さんの今の活動があるのも元々は「直感」ですけど、そこからのネットワークの広がりというか、ひとつひとつが濃い色々な出会いがあって、その人たちのサポートがあってという、その出会いがすごく魅力的ですね。

それも「直感」っていうか。五感を使うっていう「みちくさ小道」の意味を話したじゃないですか。現代の人たちはあまりにも頭とかデータとかで育っていて、多数決とかいいことだけに縛られているっていうのかな。でも、私の動きって、良いとか悪いとかじゃなくて、これが必要だとかこれがおもしろそうだとかっていう感覚です、ある意味。
でもその感覚が良くないって今まで言われていたのが、最近は時代が変わってきたのかな、もう1回感覚を取り戻そうという風潮になっています。

だから私はそこにちょうどマッチしたんだろうと思います。今までは妄想と暴走と瞑想とか、そういう風に言われていたんですよ。「あんた、何言よるかわからん」ってよく言われていました。何を言っても理解してもらえないのが怖かったし、しんどかった。だから言葉を発するのが怖かったんです。自分も何がやりたいかもわかってなくて、でも自分の中には何かやりたいという思いがすごくあって…。

-何がしたいか見えてきたのは「オンパク」との出会いがあったからでしょうか?

そうです。オンパクに出会うことによって、やりたいことがだんだん明確になっていって、自分の中の色んなものがそぎ落とされていきました。

-これからどんなことをやってみたいですか?

自分の中にないもの(笑)。未知に挑戦したいです。
人からの提案や、出来そうにないことをやっていきたいです(笑)。

-そこからまた広がっていけばいいですね。

そうなればいいかな。あんまり決めたら、枠の中ではまっちゃうので、おもしろいと思ったこととか、今自分に与えられているやらないといけないことに出会ったら、それをただ淡々とやっていきます。

【私の最終ミッション】

それと、子ども達が、私達の次の世代の人達が、少しでも楽しく暮らせる引継ぎはしたいと思っています。子ども達と一緒に悩んだり考えたりしたいなっていう思いもあります。

いつかは、発展途上の国に行って、オードリー・ヘップバーンがユニセフの支援に行った時みたいに、子ども達の支援をしたいです。
また、子ども達が、「生まれてきてよかったなぁ」とか、「ここに存在してよかったなぁ」と思えるように、そう思えるきっかけを届けたいなっていうのが最終ミッションです。
だから、今はそこにいくための助走かな。ここでがーっとお金が稼げるようになったら、発展途上国で子ども達の支援をしたいですね。

今、日本でも、お金・モノはあっても、心の飢餓とまではいかないかもしれないけど、精神的に飢えている子ども達がいる。だから、最終的なミッションとしては、国を問わず子ども達に関わる仕事をしたいと思っています。

私は兄妹が11人いるんですけど、小さい頃から「自分は存在しちゃいけない」ってずっと思っていました。母親が父親からDVを受けていて、母親のストレスが長女の私に暴力や言葉の暴力できていたんです。子どもって親に受け入れてもらって、自分の存在をわかる。要は、人間って他人からなんかしてもらうことで自分の輪郭がみえるっていうのがあって、そういうところで私は子どもの時から屈折したものがあるから、ずっと自分の存在を否定してきました。それがしんどかった。
もし、他にもそういう子ども達がいたら、どれだけしんどいかっていうのが私にはわかるじゃないですか。だから、貧乏でも、親がいなくても、「生まれていいんだよ、そこにいていいんだよ」っていうのを伝えることを、これから残された命を使ってやっていきたいと思います。

-色々な体験や苦労があって、今の加藤さんの取り組みに繋がっているんですね。今の「みちくさ小道」は加藤さんにとってどんな存在ですか?

次へのステップ、でしょうか。これで終わるんじゃなくて、それこそ目標ではなくって、ツールの一つでありながら、でも宝でもあるという感じです。

まちをつくっていくことは将来の子ども達のためになるから、自分達では全部出来ないけど、その担い手になれればいいかな。担い手というか、意思決定権の中に自分達が入っていって、リーダーの中でものが言えるようになれたらいいかなと思います。

経済的にも自立をしたい。だから、NPOで政策提言もしていきたいです。
今、地域の中に向かって具体的に一生懸命やっていっているけど、将来的にはNPOで政策提言をしていきたいと思っています。下請けとか行政のニッチな部分をやるばかりでなく、それをやりながら、「こういう問題があるから、こんな仕組みや政策、法律を作れば、もっとまちがよくなるんじゃないか」っていうところも考えて、提言するということもやっていきたいです。

-NPOの方が現場に近いから、住民の声をちゃんと反映できますよね。

【ちみちでの夢】

そうですね。でも声を反映するだけじゃなくって、具体的にこんなことが出来て、ここが変えられて、この法律をこうしたら…というところまでいきたいです。専門家と一緒に考えて提案して、それを地域で実際にやって、きちっと政策提言するっていうのがやっていきたいことです。

今の政治は、誰が責任をとるかが見えにくいと感じています。辞めたら、イコール責任をとるみたいな。でもそれってある意味無責任に感じて…。そういうところに政治や自分の人生や生活を任すことよりも、自分達でそれを考えてやって失敗するんだったら、自分が責任を取れますよね。だからそこを私たちが担っていく必要があるのかなっていう風にはちょっと思いますね。

JICA研修を受け入れた際に市長の話を聞いて思ったんですが、長っていうのは新しいことを考えてやっていくんだけど、下はなかなか受け入れがたいこともある。どうしても批判を受けるし、わからないから不安になったりもする。でも、長がこれをやるって言ったときにやっぱり必ず部下はついていくんだと。そのわからないものに向かっていくのがある意味「長」の役割なのかなぁって最近思っています。それに対しての反発や反論は、長は孤独だけど耐えて、我慢して、待つことも必要なんだなぁってすごく今思います。

あと、たくさんの人に「早く自立をしなさい。」、「経済的な自立をせんといけん。」て言われるんだけど、この前岡山県庁の人と話した時に、「国の補助とか県の補助をとるっていうこともひとつ自立の糸口だから、それを悪いとかではなくって、それも大切な自立の資源・事業として捉えればいいんじゃないか。しないとか分けて考える必要はないんじゃないかな。」っていうアドバイスをもらって、すごく楽になりました。

それまでは「自立せんといけん、自立せんといけん、自分達で自立できる事業を…」ということを考えてばかりいました。もちろんそれは必要だと思うけど、あんまりそこに囚われずに、とりあえず、今ある資金とか補助とかを使いながらやっていってもいいんかなぁと今は思っています。それによってきちんと成果や効果がでてくればいいんかなぁって。

この1年ぐらいは「お金の面で自立。」といろんな人に言われて、あるとき自立が目的になってしんどくなった時期もあったんだけど、でも自分達がお金の部分で自立するっていうのはちょっと違うんかなと最近思い始めています。国や県や色んな補助金を使いながらも、地域の人たちが元気になる活動をするのが本来の目的かなぁと思えるようになったから、楽になりました。
でもその辺がちょっとしんどい部分ですよね。事業やりながら、こっちでは次の資金を生み出してということを考えないといけないから。それがトップの仕事なら仕方ないんですけどね。

行政予算の何%かをNPOの運営に使えるような仕組みを作りたいなっていうのも今思っています。新たな地域機関として認知してももらって、要は行政(新たな公共)と一緒ですよね、「何%の予算はつけます」っていうようになれば、新しいことばっかりいつも考えなくてもいいのかなぁって思います。それに追われるとまた違うかなぁって。

-このあたりは難しいところですよね。
そうやってこれからも色んなことに挑戦されていこうとしてらっしゃるわけですが、いろんな活動を行う上で大切にしている気持ちなどはありますか?

私の今のテーマは「気が付けば」なんです。「みちくさ小道」もなんとなくやったら「気が付けば」ものが出来ていたり、人材育成になっていたり、ボランティアガイドが育成されていたり、それこそ環境問題にも取り組めるし。大上段に「環境問題をやりましょう」、「まちづくりをやりましょう」、「人材育成で何カリキュラムをして、終わったら修了書を出します」ではなくって、「気が付けば」なんか出来ていたという感じの方が受けるほうも楽でいいのかなって思ってます。ハードルが高いと勉強ばっかりでアップアップしますし。

私だって「気が付けば」です。それこそNPOを立ち上げる前、今から3年か4年前に、どうしたらいいかなって県の人に相談していた時、「地域プロデューサーになったらいいが!」って言われて、「え、地域プロデューサーなんてそんな仕事ないよ。」と思っていたんです。その時「そんなのあたしには無理。」って思ってたんですけど、そうやって言われて今、「気が付けば」地域プロデューサーに完璧になってますからね(笑)。肩書きをばあーっといわれると出来ないって思うけど、「気が付けば」なんかになっていたぐらいがいいのかなぁって。それが私のテーマです。

おもしろいのは、2年前、函館でオンパクの研修があった時、聞く側に私たちがいて、講師は男性ばかりでした。「あそこに女性がいない、講師の列に女性がいない!」と思いました。
で、いろいろ言われた時、もう悔しくって、海に向かって泣いて、研修をエスケープしました(笑)。その時「あそこに絶対女性がいないといけない!」っていうのを自分に誓ったんです。誓って、昨年(2009年)別府で行われた「こうさてん」というイベントでは、講師として事例発表を、今回(2010年)のオンパク研修でも講師として発表したので、少しずつでも一歩一歩、確実に、その時「足りない」と思ったことを実現しているかなと思っています。誰かがやってくれたら、誰かがなってくれたらと願うのですが、『気が付けば』自分がやっている状況です(笑)。

※こうさてん:2009年1月に別府で4日間に渡り行われた、まちづくりを考えるイベント。

こうさてん イベント情報 泉まちネットhttp://www.city.beppu.oita.jp/machizkr/event/200901/15.html


-第三者からみると加藤さんはなぜそこまで不可能と思えることを可能に出来るのかなと思うのですが、その原動力は何ですか?

自分には出来ないと思っていても、なんかやらんといけんような状況になったり、背中を押してくれたりするような人がいると、出来ないけどやってみていいかなと思います。
私も本当は出来ない、出来ない!みんなと一緒よ。

でも前向きは前向きです。出来るようになりたいと思うエネルギーは強いかもしれないですね。出来ない自分に対しての負けん気は強いので。
何でも出来るなって思われているけど、実は影で努力してるんですよ。言い訳はなるべくしないっていうのがもうひとつの私のテーマなので。

NPOのスタッフや地域の人たちには、本当に感謝です。私の無謀な行動によくついて来て、支えてくれたなっていうのは、なかなか言葉には出来ないけどいつも思っています。
有り難いし、本当感謝です。この場を借りて、「本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。」と伝えたいですね。

-最後に、オンパクやってみたい人へのメッセージをお願いします。

「とりあえずやろう!」(笑)しかないですよね。
オンパク手法には、やれるかもしれないという可能性があるのかなと思います。

-長時間ありがとうございました。




(インタビューをした個人的な感想)
「自分には出来ない、出来ない。」と言いながらも、その時足りないと思ったことを満たすよう確実に実現へと行動していらっしゃる加藤さん。
辛い過去を持ちながらもそれに屈さず、今、未来の子ども達へと日々尽力している姿は本当に格好よく、お話をお聞きした私自身、勇気と希望をいただきました!
今後もNPO法人吉備野工房ちみちの活動が総社にもっともっと新しい風を吹き込みますように、私も微力ながら応援させていただきたいと思います!これからもよろしくお願いします。




  1. 2010/03/18(木) 07:43:41|
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川北秀人さん(IIHOE)

オンパクのアドバイザーとして幅広くオンパクを支えてくださっている川北秀人さん                                                                                       今回はNPO法人ハットウ・オンパクの理事であり事業運営を担当している野上も一緒の対談方式でインタビューをさせていただきました。



川北 秀人さん 川北さんの個人ブログ
IIHOE[人と組織と地球のための国際研究所]代表者


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IIHOEは「地球上のすべての生命にとって調和的で民主的な発展のために」を設立目的に、「社会事業家のマネジメント支援」、「ビジネスと市民生活を通じた環境問題・社会的課題の解決」、「2020年の地球への行動計画立案」に取り組むNPOです。

このインタビューは、平成22年1月22日に鉄輪の入舟荘で立命館アジア太平洋大学4回生の石田奈々が行いました。



-まず現在のお仕事と、そのお仕事をされるに至った経緯をお聞かせください。

仕事の6割は、市民団体の運営のお手伝いです。残り4割の半分は、行政と市民団体との協働について、研究と支援をしています。さらに残った2割は、企業が社会的にまっとうな存在になるように、CSRのお手伝いをしています。収入もそれと同じく6対2対2ぐらいです。

始めたきっかけは、色々あるんですが、決定打はありません。結果的に影響が大きかったことを2つ挙げると、ひとつはやはり阪神・淡路大震災です。その時は30歳でしたけど、無職で、司法試験の受験勉強をしてました。現場のお手伝いにお邪魔してわかったのは、日本には、大きな市民団体がひとつあってもだめだ、いうことでした。

神戸には当時日本最大の生協があって、もともと市民活動が非常に盛んなところですよね。ところが、避難所に行ってみると、運営がうまく行ってない。企業も行政も何とか助けたいとは思っていたけれども、そこをちゃんと結びきる力が市民もなかった。

人間の身体でいうと、太い血管の修復や交換はどうにかできる。でも、毛細血管はできない。それと同じで、身体で言うと栄養や老廃物を送ったりするのは、末端がちゃんと機能してないとだめですよね。阪神・淡路大震災の時にそれを痛感しました。その後、2回目の司法試験を受けて、また落ちた。アメリカの法律大学院(ロースクール)を含めると、4年連続で落ち続けたわけです。さすがに「あぁ、向いてないんだ」と諦めて、仕事をし始めました。

もうひとつは、学生時代からボランティアみたいなことはしてました。国際的な冒険探検プログラム(オペレーション・ローリー)に参加したりとか、大学祭で当時最大規模のディスコのプロデューサーやったりとか。

その後、リクルートに入社しましたが、大きな会社の新人社員だったり、イベントのプロデューサーとしてよりも、ボランティアの方が、世界観が広がることに気付いたんです。ボランティアでも「代表」をやってると、会社の社長に直接コンタクトが取れる。普通のサラリーマンだと、あまりないですよね。小さくても、学生がグループをつくって、その代表として大きな会社や大きな役所の長に宛ててお手紙を書くと、ちゃんと返事が返ってくる。それなりにちゃんとした活動を続けてると、隣に座ってる人がすごいでっかい会社の役員さんだったりすることも、決してめずらしくない。そういうことが許されるのは、ボランティアか宗教組織ぐらいですよね。なので、会社でサラリーマンやりながらでも、絶対、ボランティアをやった方がいい。任される責任も、要求されるスピードも、成果の手応えも、まるで違います。誰かの成果じゃなくて、自分たちの成果っていうのを、20代前半に経験できたのは、すっごく大きかったです。

-ではその気付きがきっかけでNPOやろうかなという風に?


あっち行ったりこっち行ったりしてるので、正しく追っていくと、大学を卒業して会社に入って、人事や広報などを担当しましたが、少しは会社の役に立てたかなと思うのは、採用の支援、それも国際的な採用の支援です。日本から海外に行ってる留学生と、海外から日本に来てる留学生の採用、いわゆる国際採用の支援をやってました。僕は幸運なことに、リクルートの採用担当者としてアメリカと西欧で大学を回って、リクルートに就職してくださる人を探すという仕事をやってました。1987年の話ですけが、当時、日本とヨーロッパとアメリカの3大陸で採用活動をやった人って、3人しかいなかったんです。

-すごいですね。


(野上)え~3人ってわかるんですか?

お一人は有名なグローバル企業の人事の方で、もう一人はリクルートの先輩です。 僕は91年にリクルートを辞めたんですが、その理由は、弁護士の資格をとりたかったからです。採用支援の仕事を本気でやろうと思うと、どこかの国で弁護士の資格を持ってないとできない。丁度そのころ、EC(欧州共同体)がEU(欧州連合)に変わるときでもあり、ドラスティックに変わることがわかっていたので、国際採用の支援をリクルートは本格的にやるべきだって提言したんですけど、「なるほどね」といったレベルの認識だったので、「だったら俺がやるから、留学したいんです」って言ったんですが、ところがその当時のリクルートには経営大学院(ビジネススクール、2年間)への留学制度しかなくて、法律大学院(ロースクール、3年間)に行かせてもらえる制度がなかった。「じゃあ辞めて行きます!」って飛び出したのに、2年連続で落ちちゃった。その準備期間中は、現在の広島市長の秋葉忠利さんの秘書をやってました。国際的な議員連盟の事務局をいくつも担当していたので、アル・ゴアさんの通訳をしたこともありましたよ。

 さすがに、「2年も続けて落ちてたらだめだ」と思って、さらに勘違いして、日本で司法試験を受けようと思っちゃった。はっちゃん・ぶんちゃんの「ああ勘違い」っていう歌は、痛いとこついてるんですよ、個人的には(笑)。それから2年間は全く無職で司法試験の受験勉強してたんですが、その途中で阪神・淡路大震災が起きた。現場のお手伝いをして、戻ってきて試験受けて、また落ちた。ロースクールと合わせて4年も連続で試験に落ち続けた。「もうこんなことしてちゃだめだなぁ」と思って、たまたま学生のころから、まあNPOみたいなこともやってて、企業にもいて、永田町や霞が関のしくみもわかってますから。


(野上)そうですよね、確かに。海外の支援の状況も理解している…それすごいですよね。


まぁ一応。だから国内だけでも3言語しゃべれるわけです。「世の中語」と「役所語」と「会社語」がわかる。このつなぎができるやつがいないと、社会は変わんないって思ったんです。


(野上)そりゃあ、そうですわ。


それが95年6月です。すぐにいくつかの市民団体を掛け持ちして雇ってもらいました。
NPOの支援をする人っていうのは、その当時もいたことはいましたが、社会福祉協議会のボランティア・センターのコーディネーターさんとか、大学の先生が片手間でちょっと、みたいな状況でした。

何が問題かっていうと、プロフェッショナルとしてサポートしてない。たとえば、世界各国に支部のある国際的な自然保護団体って日本にもいくつもありますけど、先進国で最も会員数が少ない。それをどう増やすかという戦略に具体的に助言できる人は、誰もいなかった。ちらしをどう配るかとか、広告をどう載せるかという手法は助言できても、「現在の会員はなぜ続けているか」とか、「なぜ辞めちゃったのか」といった、企業なら当たり前にやってることができるコンサルタントが誰もいなかった。これをちゃんとやらないとだめだと。

当時の僕の最大の顧客は、有機などの農産物の宅配をやってらっしゃる「らでぃっしゅぼーや」という団体で、当時の年商が150億円ぐらいで、それを200億円にすることを目標にして、時給800円のアルバイトとしてスタートしました。お手伝いしたのは95年から99年までですが、99年には報酬が1000万円を越えました。
そちらには月曜日から木曜日までの朝9時から17時ぐらいまでいて、その後、18時から21時までは別の団体に行って、金曜日はまた別の団体、土曜日はさらに別の団体に伺って、日曜日にオリジナルの講座をつくってました。

-ノンストップですね。


そうです。でも、そうしないと起業なんてできるはずがない。だって、別府で温泉旅館を始めたいと思ったら、人の3倍働くでしょう?それと同じことです。

僕は最初の顧客に非常に恵まれた。当時日本で最大規模の有機などの農産物の宅配事業者と、留学したいがよく利用した「留学ジャーナル」っていう雑誌を発行してる、もともとNPOみたいな会社と、帆船を使って国際交流をやろうっていう団体だとかを、掛け持ちすることができた。すると、どんな団体にも共通の課題と、個々の分野や団体の特徴的な問題っていうのがわかってくる。共通のことは講座にした方がいいと思って、95年12月から「若いリーダーのためのマネジメント講座」っていう講座を始めました。

(野上)IIHOEとして組織を立ち上げたのは?

実質的には95年です。名前だけは94年にスタートしてたんですけど。本当は、「人と組織と地球のための国際法律事務所」になる予定だったんです。でも弁護士になれなかったので、今のところ15年間、IIHOEは研究所のまんまなんです。

(野上)法務をやろうとしたんですか?

そうです、国際法務がやりたかったんです。

(野上)ほう、すごいですね~。

いえいえ。でも、その問題って今でも大切なんです。たとえば日本人が中国に行って働くと、年金はどうするのって話になりますよね? ここで弁護士が登場して、この国の法律はこうなってますっていうやり取りが必要なんです。国や会社を代表して労働者を守るには、弁護士の資格が必要なだけでなく、国を超えて文化を理解するとともに、場合によっては法制度を変えさせる必要もある。でも、4年も続けて落ちちゃったあとは、市民団体の支援が本業になっちゃってます。

-月並みですが、本当にすごいですね。経歴に圧倒されてしまいました。


いえいえ。単なる挫折の連続です。

-では、そんな経歴を重ねながら、川北さんは野上にどういう風に出会われたんですか?


今、10年間ぐらい端折っられましたね(笑)?
野上さんとお会いしたのは、角野さんに連れてこられた時ですよね?

(野上)そうですね。あの…ツルタの食事の時ですかね。

そうです。2004年に、当時県の商工労働部長として、経済産業省から出向していらっしゃった角野さんのお引き合わせでした。角野さんとは、本省にいらっしゃったころに、インフォーマルな勉強会や飲み会で、何度かご一緒してました。とにかく現場に行きたい!って良くおっしゃってた方で、03年に大分県に出向することになって、すっごくよろこんでた。「そのうち呼びますから!」って言われて、翌04年に「由布院を見に来て下さい」って言われたんです。すごく関心があったので、喜んで来ましたが、その時、空港から由布院に抜けていく途中で、別府でお昼をご一緒させていただきました。そのメンバーが、鶴田さん(NPO法人ハットウ・オンパク代表理事)、菅さん、甲斐さん、栗田さんと野上さん。

 そのときに、湯路のお話だとかを伺って、「だったら、英国大使を呼んだらどうですか?」っていう話をしました。イギリスって、EUには加盟してるけど、ユーロには入ってないんです。それで「イギリスは湯路に加盟する」って、4月1日のエイプリル・フールにフィナンシャル・タイムズに記事書かいてもらったら、なんて話をしたのが、その時ですね。

 次にお邪魔したのは06年の4月で、全国でNPOの支援に携わる主な方たちとIIHOEが合同の、プロジェクトをその前年(05年)に行ったのですが、その慰労会として50名近くで伺いました。

(野上)そうですね。僕が「中間支援」など、全く知らないころです。意識のないまま受け入れてしまって。

 本当にありがとうございました。あの時以来、全国の中間支援に携わる人間が「別府は本当に面白い」って気付いてしまった。それから、いろんな人を連れてきては、野上さんに「すいませんけどちょっとこんな方の受け入れをお願いします」ってお願いするようになったのが06年ぐらいからで、そのころから、経済産業省もコミュニティービジネスやソーシャルビジネスの支援に予算を付けるようになって、オンパクが中間支援事業に採択されたのが、07年ですよね。

(野上)採択される直前に、これまた川北さんの紹介でこの分野の事業で進んでいたETIC.さんや経済産業省のキーマンが別府に来てるんですよ。川北さんから頂いたご縁のおかげでオンパクも全国に展開できるチャンスを得ることができました。


 それ以来、毎年みたいにお邪魔して。オンパクの研修のお手伝いをするようになったのは、函館の時からでしたっけ?

(野上)いやいや、その前のいちばん最初の別府研修からですよ。

 そうだ、その前の別府でしたね。

-そこで、オンパク面白いなっていう風に思われたんですか?


 面白くないですか?? 面白いでしょ? だから、気を付けないといけないのは、オンパクを面白いって伝えるのは簡単なんですが、何が面白さを可能にしてるのかを、ちゃんといろんな人に説明できるようになってないとだめなんです。

 市役所には市役所の論理があるし、会社には会社の論理があるし、市民には市民の論理があるじゃないですか。「どの人から見ても面白いね~」で終わっちゃだめなんです。「これをやっぱ続けないと!」とか、「やり抜かないと!」って思ってもらわなきゃならない。すると、どこがすごいかとか、特徴はこれよとか、核になる価値はこれですよみたいなことを、ご自身たちは気付かないんだけど、他のものと比べてどう違うかを説明するのが僕たちの仕事ですから。
もうひとつ、できてない人たちに、「そんなことやってる間はだめよ」って、ちゃんと突っ込んで言える関係を持つことも大切です。

-そういう流れでオンパクと関わり始めたんですね。


そうです。


(野上)だから川北さんがオンパクのことを知ったのは、おそらく…


2004年ですね、さかのぼると。


(野上)で、川北さんに本格的にオンパクの説明が出来だしたのが、大分県のコミュニティビジネス支援事業の「民子の夢弁当プロジェクト」のときに何回か別府に来られた時に、サロン岸でガイドブック見せながら、あんなことこんなことやってるんですよって。で、その辺で川北さんも面白いって思われて、それで仲間を別府に連れてきて、やってることを知ってもらおうって感じで、連れてきていただいたっていう。



2005年に第一陣でお邪魔して…あれから5年になるんですねぇ。


kawakita02.jpg

(九州駅弁コンテストで二年連続二位になった「たみこの夢弁当」や別府のB級グルメの活動なども川北さんに指導してもらったコミュニティビジネス創出支援事業の成果なのです:野上談)



(野上)だから実は我々も、それから加藤哲夫さんとかああこんな人たちがいるんだっていうのを知ったんですね。こんな人たちが日本にいてやってるんだっていうのを。なんだかとても気持ちのいい人たちだったので。例えば会をした時も後片付けはみんなでやるとか(笑)。。で、僕ら竹瓦倶楽部っていうのは、そういうのをやりたかったわけなんですよ。まあそういうことを実践してる人がいっぱいいるんだっていうのはとても新鮮でした…。



 我々の仕事って、市民団体の運営を支援ですから、いいと思ったもののどこがよくて、自分の地域に当てはめるとどうかということを、バツっとわかんないとだめなんです。自分では最近、年に100ヶ所ぐらいお邪魔してお手伝いしていますが、その現場で、官と民との協働や地域づくりといったテーマでお話しする時には、半分以上のケースでオンパクのお話をご紹介してます。
 加藤せい子さん(岡山県総社市 NPO吉備野工房ちみち 代表理事)も、僕の記憶違いでなければ、鶴田さんのお話を聞いた前後に、僕の話を聞いてらっしゃるんです。佐土原さん(宮崎県 都城まちづくり会社、ボンパク(都城盆地博覧会)実行委員スタッフ)もそうですよね。


(野上)佐土原さんは完全に川北さんから薦められて、わけわからないまま別府でのオンパク研修会に来ましたね。いつの間にか、そこにいた(笑)


 僕も来てらっしゃるの知らなかった。佐土原さんは、宮崎県庁主催の協働についての研修に来てて、そこで僕がオンパクのお話をして、その後、僕の個人ブログに別府研修のことを紹介したら、それ見て来たんですよね。

 熱海の市来さんも、一新塾っていう、大前研一さんが作った政策学校の受講生で、加藤さんも僕もその講師なんです。僕の担当は受講生の提案への助言で、市来さんたちのグループが、「熱海の活性化やりたい」と。「オンパクは知ってるよね?」って言ったら、「それなんすか?」って。「あなた、温泉の活性化したいのに、オンパクも知らないの?」って言ったら、「すぐ行きます!」って言ってたけど。


(野上)遠すぎて来れなかった…(笑)


ですよね。でも、散々たきつけられて。


(野上)そのかわり市来さんは2月にいわきに行って里見さんに会ってましたね。


今回の別府研修に来てらっしゃる方たちも、半分ぐらいは以前から存じ上げてます。
行政や商工会議所の人たちがオンパクに取り組み始めても、なぜ動かない・広がらないかっていうと、お役目でやっちゃうからですよね。自分の人生や価値観をかけてやろうと思わない。やっぱそこがないとね。

昨日、野上さんはすっごく重要なことを3つおっしゃってるんです。「決定権限を人に渡さない」とか、「とりあえずやっちゃう」とかね。市民活動はみんなそうなんです。商店街の活性化なんかも、商店街組合を通じてやってると、難しい。できなくなっちゃう。だから、誰かが始めちゃったものを、嫌々でも押し倒すが如く、とにかくもう広げていく。だから、民主的にやった方がいいことと、非民主的にやった方がいいこととで言えば、立ち上げる段階は極めて非民主的ですよね。文化祭のテーマを決めるときに、合議制でいいキャッチコピーできるはずないでしょう。それと同じです。


(野上)三好先生(立命館アジア太平洋大学 大学院教授)もよく言います、まちづくりはアートの世界だって。まちづくりってアートの感覚が必要だってよく言うでしょう。皆で話し合って作る部分もあれば、感性でやっちゃう部分もありますね。


すると、プロデューサーは複数いるより、1人。「これはいい」とか「これはだめ」っていうのを自分基準で決めて、それがちゃんと後から説明できれば広がる。逆に、その人だけの世界になっちゃったら、その人と一緒にぽしゃっちゃう。


-では、川北さんはオンパクをどのように捉えてらっしゃいますか?



 非常に使い勝手のいい道具なので、とっつきは非常にいい。問題は、続けていくっていう気がないと、形になり続けないものだということ。インターネットも携帯電話も、使い方をちゃんと示していくことが大切で、ここからここまではいいけど、ここから先はだめ、みたいなことがどこかにないとだめです。


(野上)オンパクっていうのはある意味「ここまではオンパクでいこう・・」っていうのがあるのでいいと思うんですよ。そっから先はたぶん別のアプローチになるんだろうし。まあでもその先とか今はわかんないです。別府の場合、続けざるを得ないので永遠と続けてるんだけど(笑)・・展開してる地域はなんかどこかで、きったほうがいいんじゃないかっていう気はあるんですよね。


 世の中でね、固有名詞が普通名詞になるケースって極めて珍しいでしょう。例えばホッチキスとか、マジックとか。他にはあまりないでしょ? でも、オンパクって、動詞とか名詞として使われてる。既に独自の存在感を持ってる。だから、全体をプロデュースする側は慎重でないと。いいとかだめとかいうことは、気がついた時にパチャっと言わないと。


(野上)「オンパク」ってなんとなくイメージとして浮かぶようにはなりたいですよね。こんな感じで、こんな感じでっていう。若干誤解されたり馬鹿にされたりしてる部分はあるんだろうけど。(笑)


-それを(オンパクの手法を)広めてくださってるわけですもんね。


はい、勝手に。すいません(笑)。


(野上)広げてくれてるのは川北さんと、鶴田さんと、あとJTBの清水さんとか・・


もちろん、地域にとって、資源の顕在化にオンパクは向いてるけれども、その後の二の矢・三の矢が…


(野上)まあまあそうですよね。


 別府で言うと「じねたび」にあたるものを、各地域で考えさせなきゃいけない。昨日、敢えて「続け方」なんて話を聞いたのは、オンパクって「始まりの始まり」でしかないからです。

※じねたび:NPO法人 ハットウ・オンパクが提供する、別府生まれの、地元ネタを楽しむという新しい旅のスタイル
じねたび http://jinetabi.onpaku.jp/modules/jine/jinetabitoha.php


(野上)ですね。


 みんな、始まりの続きを想定してないんです。オンパクやってて疲れてしまうとすると。「自分はオンパクをやるので精一杯だ」と思ってる部分があるからで、それじゃだめなんです。 ゴールに向けたプロセスを組み立てる手段のひとつとして、オンパクっていうのがあるだけだからです。 その意味では、求められるのは能力的ではなくて、気持ちの奥行きとか幅として、「まだまだ先は見えないけど、がんばろう」っていうのが絶対に必要です。

 そういう意味では、オンパクは作品ではないんです。テレビシリーズの1シーズンとして考えてもらわないと。だから野上さんのおっしゃってる「とりあえず」っていうのが正しくて、「これしかない!」って思っちゃった人は、オンパクの準備に慎重になっちゃって、そのあとのことまで気持ちも段取りも届かない。でも「いくつかある手立てのひとつでしょ」って思える人が、ちゃちゃっとやっちゃって、転がっていきながら育てていかないと。でも、誰かからこのための予算をもらって仕事にしてる人は、だめですよね。その予算の枠中でしか、自分たちのやってる事業を評価できない。可哀想です。

-ではこれからオンパクはどうなっていくべきだと思われますか?


別府でコントロールしたほうがいいことと、そうじゃないことに分かれます。
別府でコントロールしたほうがいいことは、「オンパクってこういう使い方もあるよ。たとえば総社では、都城では…」と見せていくのが別府の役割。

 逆に、各地域が発信した方がいいのは、「テーマ別のパートナーさんの部会」。「全国で○○が得意な人」みたいな感じで、たとえば「全国まちあるきサミット」とか、「まちあるき写真部会」とかができてもいい。そういったテーマ別の部会を、せい子さんや佐土原さん、市来さんたちがつくってくださると、それぞれの個性が育つんです。逆に言えば、各地のオンパク・プロデューサーさんたちには、なぞってるだけの段階から早く卒業していただきたい。

 今、ジャパン・オンパクでつくってるデータベースで、「テーマを軸に集まりたい!」って思うようなことになってほしいんです。これまでに実にたくさんのデータベースができてますが、それはほとんど行政のおカネをもらってつくられたものなので、役所の担当部署別にできちゃってるんです。オンパクの全国規模で考えてみたときに、このテーマにはこういう人がいるよね、じゃあそういう人たちを意識的に集めたり動かしたりしよう、ということを全国でやるととすごくコストがかかるんですが、ブロック単位だったらできるかもしれない。


(野上)それは力をもったパートナーさんで、そういうこと出来る人が、ブロックに6つ5つぐらいのオンパク事業体ができてくると、そういう動きも出てくるんじゃないかって気はしますけどね。


そうそう! それができると、野上さんが考えてらっしゃる、別府以外で人が育つっていうことに結び付く。


(野上)人が動き出すというか。オンパク事業体が連携してもたぶん人は動かせないけど、パートナーさんがまたいで連携しだすと、たぶんそこに引き連れてる周りの人たちも含めて動くんじゃないかなぁと思いますね。そうなると、それだけで密度がありますよね、オンパクやってるっていう。今の密度だと全国で8とか10とかいう数字じゃまだ薄いかなっていう。



 だから、今から始めてもいいかなって思うのは、べストパートナーさんの内部表彰制度を、それぞれでつくっとくこと。で、ベストの人たち同士が、お互いにめぐり合う場面を…



(野上)パートナーさんの中でも、よく本当にやってる人たちにある意味お墨付きを与えていくということは、今度のポータルでね、やろうと思っているんですよ。このパートナーさんの事例って、全国的にもOKでしょうみたいな、そういうのはしたいねっていうか、するよね?(インタビュアーにプレッシャーを与える(笑))


 好き嫌いはあるかもしれないですけど、交わっていただくところまでは、一応おせっかいしといた方がいいだろうなと思います。


(野上)パートナーが全国の地域のパートナーの成功事例っていうのを、みんなが地域で表現できると、とても役に立つと思うわ。パートナーの事例を共有して、だって参考になる事例が結構あるんですよね。それは僕らは知ってるけど、例えば能登のね、高(タカ)農園の事例を知らないと思うんですけどね、そういう事例を共有できて初めて支援力になると思うんですよね。


 既に末田さんとか、今のスタッフにも、それぞれがお得意な課題や分野がある。それが、各地域の事務局長さんレベルに出てくるといいんです。たとえば「都城の事務局長さんはアートに強い」とかね。


(野上)なるほど。パートナーの事例共有っていうのは実は今までしてないんですよ、僕らオンパクは。それはやっぱり非常に必要ですよね。


 そうですね。今まではオペレーションやマネジメントの面をみてきましたが、今度はコンテンツの質に踏み込んでいかないと。昨日、敢えて伺ったのはそこなんです。コンテンツの質を上げなきゃいけない段階は、絶対くる。それは、コンテンツの質を自発的に高めさせるしかけづくりと同じ。マンネリ打破とクオリティー向上は、表裏の関係なんです。


(野上)そうか、そうすると、要はよその地域のパートナーさんの優れた事例を色んな地域で紹介しながら、クオリティーをあげていくっていうのができますよね、やろうと思えば。それをやりゃあいいんだ。


そうそう!


(野上)いやあそうやってね、段々話してると気付かされるんですよ。(笑) そういうの、やろうね。そういう人たちにロングインタビューをかけて、整理していこうね。(と、またまたインタビュアーにプレッシャーを与える)



 その時に大事なのは、見出しです。この人のどこがすごいのかが、最初の何行かでちゃんとわかって、拾い読みできるインタビューでないとだめです。逆に言うと、こっちもその人の特徴がつかめるように、他の人と何が違うのかという、ある程度の仮説を持って話を伺いに行く。あんまり思い込みが強いとだめですけど。

 昨日から今日にかけて、研修の受講者さんたちが別府で様々なパートナーさんたちと交流するときに、事前に「各パートナーさんのお話をまとめる担当」として3人ぐらいずつの班を決めたじゃないですか、あれと同じことです。しかも、今回は発表用の書式を与えた。自分が何を聞かなきゃいけないのかを、しっかり動機付けできてからインタビューに行くのと、ただ見て帰ってくるだけのとでは、吸収量が何十倍も違うんです。しかも、周りの人が「こういうことに気付いた」って言ってるのを聞いて、「そういえば!」みたいなのもある。強制発想法と言いますが、枠を決めといて「これを埋めなさい」って言われると、それを埋める精度の高さは、日本人はずば抜けてる。インド人とか中国人とかは、お構いなしに自分の好きなことを勝手に答え始める。でも日本人は、こちらの問いかけさえ正しければ、ちゃんと返ってくる確率が高い。

 それと同じことを、パートナーさんたちにも体験していただきたいんです。90年代に有機農業のお手伝いをしてたとき、日本の農業生産者をヨーロッパに連れて行くっていう視察をやったんですね。僕が事務局で、どこを周るかを全部段取りして、通訳もやって。その時に本当に面白かったのは、もうみんな成田でブーブー言ってるわけですよ。「忙しい」とか、「どうせ行っても勉強になることなんてねぇ」とか、「スウェーデンは違う」「ドイツはどうだ」とか。でもね、現地で生産者を訪問して、土を見た瞬間に変わる。生産者にとっては、土が世界共通の言語なんです。ちゃんとしてる農業生産者の誇りは、野菜じゃないんです。土なんです。「そうか、この人に、土の話をしてもらえばいいんだ」って気付いたころあたりから、めちゃめちゃ楽になりました。


(野上)土の話が世界共通の価値観になってるんですね。


 気候に合わせた土のつくり方があって、スウェーデンだと夏がものすごい短い。日本にもそういう地域はある。「ものすごい寒いとか、ものすごい暑くて、作物ができないって時にどうしてんの?」って話は、ものっすごい盛り上がるんですよ。そういうときは、通訳がいらない。カリウムなんて、カリっていったらわかりますからね。
それは、竹とんぼでもいいわけです。竹田で竹とんぼ作ってる人と、別府で竹とんぼつくってる人は、材質や教えてる対象は違うかもしれないけど、どうやったら竹とんぼを長くゆっくり飛ばせるかとかいうことになると、最初は「俺の方が一番に決まってる」って思ってるかもしれないけど、竹とんぼを見せ合った瞬間から顔色が変わるはずです。つまり、そういう共通言語をしっかり確認できる機会をつくってあげればいいんです。


(野上)オンパクというひとつの枠の中の共通言語っていうのはありますよね。あとは得意分野のジャンル別にわければそれぞれの専門の話にもなるし。


 普通にあいさつしておしまい、そのあとは腹の探りあい、みたいな交流会やってる間は絶対だめです。やっぱり誰かに前に出てもらって、「私はこうしてます」っていう話をカツっとやった後に、「あとはご自由に」っていってあげたほうが…


(野上)どんどん開示していってね。


 そうそう。「私はこうしてます」とか、とにかく手の内を早く明かさせることが、僕らの腕の見せ所です。


(野上)距離が離れてるとそういうのもしやすいですしね。でも同じエリアだと競合になってしまうから。そう考えるとオンパクってもうちょっと狭いブロックでいくつも出てきた時に、もう一回新しい別世界がみえてくるってことですよね。面白いですね。


 そういう意味ではテーマ別、あるいは困ってること同士を結び付けた「お題」別の部会ってのすごい大事です。


(野上)パートナーさん同士の連携ですね。


 そうです。それが事務局を育ててくれると思うんです。自分たちに要求されてる専門性や、刺激の仕方を、場づくりを通じて学べますからね。


(野上)場をつくればいいんだ、別に自分達が専門家になって伝える必要はなくて、会わせる場をつくる…


 そうです。どういう場をつくらないと刺激されないかって、野上さんはずっと考えてるでしょ?

(野上)それが支援力ですよね。


 そうです、その通りです。

(野上)あ、なるほど!俺らが別に支援する必要なくって、場をつくってこうパートナーさん同士をくっつけあって、そこでこうあげていけばいいっていうことですね。


 僕の仕事を見てらっしゃるとおわかりだと思うんですが、僕が教えられることなんてほとんどない。現実には「この人とこの人を結びつたら、きっとうまくいくぞ!」ってマッチメイクしてるだけです。


(野上)別府ではパートナーさん同士の、ジャンルごとのミーティングをやっていくと、オンパクのレベルもあがっていくと、そういうことですね。

(この辺りは、インタビューであることを忘れて、教えを請うている状態・・・すみません:野上)

 そうです! たとえば、あの方のプログラムの様子をビデオで撮っておいて、それを後からみんなで見ながらブリーフィングする。そこまでオープンな人がいない場合は、各自がいま工夫していることと困っていることを紙に書いて発表してもらって、知恵の出し合いから「現場を見せ合いましょう」ってことになったら、もう後は大丈夫です。


(野上)まあそういうのは擬似的には行われていくんですけども、回数的に僕らまだ少ないですね。

 パートナーさんの数が100を超えてくると、大事なのは、事務局だけが全部知ってるんじゃなくて、パートナーさん同士が意識し合える関係になるかどうかです。

(野上)その辺の場の設定の仕方がまだちょっと僕ら不足しているという感じですね。

ぜひ、これから。

-すごい勉強になります。


(野上)考えてみると当たり前のことなんですけど、・・忘れちゃう。

-笑-

(野上)そういうもんですよねぇ。


 コミュニティ・ビジネスってね、群れがないと育たないんです。群生以外、残りえないんです。コミュニティがあるから、コミュニティ・ビジネスだからですよ。コミュニティって、共有体です。ギブアンドテイクはマーケットですから。たとえば、隣通しに住んでるおばあちゃんとおじいちゃんは、何かをやり取りしてることはないわけけれども、たとえばお葬式があったらお手伝いに行くとか来てもらうとか。あるいはお茶を一人分だけ飲むのはもったいないから、2人分にしようかなと思って呼んでみるとかっていうのは、経済学者はそれも対価のやり取りだって言いますが、それは貨幣に置き換えることができない、損得の感情とは違う上位概念が必ずあるはずで、共有することのメリットなんです。その共有のメリット感を信じられなければ、社会も組織もできない。


-では、これからやってみたいことはありますか?
オンパクに関すること、それ以外のこと、よければ両方お聞かせください。



 オンパクの中では、さっき申し上げたような、テーマ別とかエリア別のコミュニティづくりで、たとえば防災とか障碍者の介護をやってらっしゃる団体同士が、お互いにパートナーや利用者になったりする状況を期待してます。

 個人的には、あと5年で50歳になるんですが、その時にやろうと思ってるのは、福祉と医療の一体化です。そのころの日本は、医療と福祉を分けてる場合じゃない。だからそれに備えるっていう動きを、50歳になったらできるように、あと4年でこの仕事を一応卒業するつもりでいます。


-そうなんですか。また次のステージというわけですね。


 決めとかないとね。いつかどうにかなるだろうって思ってる間は、絶対だめです。もちろん50歳の時点で瞬間的に変われるわけじゃありませんが。福祉と医療が一体的に経営できるようになるには、組織だけじゃなく、制度も変えなきゃいけないし、地域の人たちにも「医療と福祉が元で運営されたほうがいいよね」って納得してもらえるケースづくりが必要ですからね。

(野上)あの、漠然とオンパクを各地で…あ、本当はオンパクをやる地域っていうのはそんなに広くなくてもいんじゃないかって思ってまして。ある程度のエリアの中でやればいい…そこのオンパクやってる人なり組織のものじゃなくて、このエリアを経営していく組織が最初の名刺代わりにスタートするというか、有効なネットワーク作りのためのオンパクをやってほしいですね。で、ネットワークが出来たときに、じゃあ次にどうやってそこのエリアの経営をしていくかっていう部分が、それは観光地なら、例えばツーリズム系もあるだろうし。けどね、まだやっぱり弱いんですよ。それだけだとあんまり経営できるイメージがなくて、そこのモデルを完成っていうかつくっていかないといけないなっていうのはありますよね。


ね、(僕が)言ったことと同じでしょう?


-そうですね。



(野上)けどね、そこのエリアがあることで、そこのエリアがちゃんとコミュニティーでハッピーに運営できてるというのを多くの人がそこで認めてくれるっていう話なので、そういうものにしたいんですよ。そうすると本当にね、もっと強いですしね。 地域のマーケットって限られてるから、そのマーケットの中でこう…存在するとなると、ある職業だけじゃ多分そのマーケットじゃ成立しないけど。けど、そのサービスを逆に1年中やってく必要もないわけだから。時期とかに応じて変化しながら生きていく人たちがたくさんいれば、地域としてのサービスの供給は十分行き渡るしね。そういう感じにしたいんだよね。そういう地域のコアになる存在として、いわゆるオンパク事業的なものがやっぱりあって、っていう役割を、社会的に認知させたいんですよ。そういうのがいるなぁっていうのを。


 そうですね。昨日の三好先生の言葉を引き継いで言うと、「日本一」の別府は2030年ごろ、旅館の半分以上は介護施設に変わってます。だけど「世界一」の別府となると、世界中のお客さんを引きつける力は、まだまだあります。つまり、ステージを2つ持つ必要がある。すると、今後は設備の更新時には、単にバリアフリーなだけじゃなくて、将来は介護施設に転用できるかってことも考えてほしい。でも、一軒一軒がバラバラに考えたりやったりするんじゃなくて、一緒に組み立てないと・・

-あ、そろそろお時間です。今日はたいへんありがとうございました。




(インタビューをした個人的な感想)
何もかもが衝撃でした。(笑)
これだけ多くの経験を積み続け、どんどん新たなステージへ進み続ける川北さんの生き方は本当に格好よく、聞き惚れてしまいました。1時間という時間の中でたくさんのことを勉強させていただきましたし、川北さんというプロの視点でオンパクの課題や未来ことを聞け、これを読む全ての人にとって役に立つ「気付き」の場所になったと思います。本当にありがとうございました。



  1. 2010/03/06(土) 13:58:25|
  2. オンパク 支援者
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