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鶴田浩一郎さん(NPO法人ハットウ・オンパク)

オンパクの生みの親 別府オンパクの鶴田浩一郎さん



NPO法人ハットウ・オンパク 代表理事
鶴田浩一郎さん


turutasan.jpg



今回は、NPO法人ハットウ・オンパクの代表として、観光カリスマとして、別府のまちを牽引する「まちづくりのリーダー」である、鶴田浩一郎さんに、お話をお聞きしました。

このインタビューは、平成22年1月25日にオンパク事務局で立命館アジア太平洋大学4回生の森本舞佳が行いました。





―NPO法人ハットウ・オンパクの設立経緯を教えてください。

始めた時の別府の環境から話します。1990年代に別府はどちらかというと衰退観光地になっていたんですね。基本的に、地域というのは人間と同じで元気になったり、衰退したり、成長したり、いろんな局面があるわけです。1990年代の別府は落ちるばっかりの衰退期の時期だったんです。観光統計などを見ればわかるのですが、非常に長い衰退期を別府は過ごしているんです。今、観光は産業として言われるようになったのですが、当時は観光っていうのは産業として日本の中で確立されていなかった時代です。観光は、よくいわれる電気、鉄、自動車、ITとかいう産業と全く違うんですよ。企業を育てれば、産業が育つみたいな話ではないんです。観光は、地域と根付いているから、一つの企業がいくら頑張っても、地域としてはうまくいかないんです。

でも、最初の頃はそういうことがよくわからないので、とにかく「地域はもっと元気にならなきゃ」と思っていました。別府がずっと低迷を続けていたように、全国で同じようなことが起こっていました。1980年代までの最大の温泉地っていうのは、東の熱海と、西の別府だったんです。大型温泉地ですね。そういうところは1970年代以降、日本の高度成長時代はとても良いわけです。その当時は、基本的にお客さんの中身は団体さんです。

―社員旅行とか、修学旅行みたいなものですよね?

そうそう。会社でもインセンティブをつけて、旅行させていたんです。団体旅行の種類が山程ありました。1980年代までは、企業などの枠の中で、バスで揃っていくっていうのが観光形態だったんです。

それが変わっていったのが、1990年代です。経済環境が、大きく変わって、旅行形態も変わっていったわけです。その中で別府は1990年代に衰退という観光地としての位置づけになったんです。さっきも言ったように別府だけじゃなくて、大型温泉地と言われる、100万人位泊まれる温泉地って日本に40か所位あるんですよ。一番大きいのは、箱根、鬼怒川、5番目位にいつも別府がくるんです。そういう温泉地が全て衰退期を迎えるわけです。

その時、どう手を打つのか。さっき言ったように、産業で言えば、一つ一つの企業、NECさんが頑張るとか、富士通さんが頑張るとか、鉄だったら新日鉄さんが頑張るとかありますよね。一般的にはそういう政策をとればいいんですが、観光はどうも違うんですよね。地域に人が来ることなので、地域に魅力がないとどうも人が来ないんです。例えば、別府で言うと、杉の井ホテルさんだけがとても素晴らしくても、地域としては衰退期を迎えて、いわゆる杉の井ホテルが立派なホテルであっても、このホテルも駄目になってしまいます。だから、観光というのは、どうも観光産業の人たちだけで頑張れば良い問題ではないんですね。格好良く言うと、地域の市民とか、地場産業の人達、地域にいて仕事をしている中小、零細の人達、こういう人たちがやっぱり一所懸命頑張って、地域を元気にしながら、お客様を呼んでいくという構造を作らない限りはうまくないのです。これが、1995年以降に僕らが気付いたことです。それまでは気が付かないんですよ。良い時代は、一人一人なんとなく頑張っていれば、右肩上がりにお客様が増えますからね。だから、集客のマーケットがどうかという話や、お客様が来る基本的な構造を把握しなくても良いわけです。企業で頑張っていれば右肩上がりだから、問題点が見えないんですよ。集客がちょっと大変になり出して、問題点が見えてきたのが、1991年のいわゆるバブルの崩壊の時です。

―では、観光の視点からまちづくりの取り組みを始められたのですか?

そうです。僕がまちづくりを始めたのは、観光はまちづくりをやらないとどうもうまくいかないというのがわかったからです。1994年、きっかけとしてやったのが、クリスマスHANABIファンタジアというイベントでした。今もやっていますよね。あれは、実は、僕達が民間で立ち上げているんです。民活の地域イベントなので、商店街、旅館街、行政、全部を一つにして実行委員会を作って、立ち上げて、私は2000年までやっていました。これはとてもうまくいったイベントでした。こうやって街の人達と一緒にやっていくというのが、とても大切なことだと認識していたのですが、最終的にはあまりうまくいきませんでした。お客様はいっぱい集まるんですが、やる人のモチベーションがばらばらになってくるんですね。こういうイベントの場合、儲かる人は一生懸命やるけど、儲からない人はどんどん腰を引いていくという構造になっていくわけです。それと、最初の頃は皆、一所懸命やるんですが、そういう構造が出来てしまうと、腰を引く人が随分増えてきて、本気で街のためにやる人がいなくなってくるんですね。今は20万人位集まるけれども、集客交流の派手なイベントというのは、どうも仕組みとして街を長期的に、サステイナブルに発展させていくものじゃないなというのが現実になったわけです。

―大きなイベントの問題点が見えたということですが、どのように対処していかれたのですか?

次に「何やるの?」と言った時に、何をやるかわからなかったんですよ。どうしていいかわかりませんでした。そこで、どうしていいかわからない時には、どんな小さなことでもいいからやるべきだと考えました。衰退期なので、再生のタネを見つけていくという仕事をすればいいんですね。それで、再生のネタ探しをやったわけですよ。そのネタが、いくつかあったんです。例えば、最初に気がついたのは、温泉と医療とか、温泉とエステとか、温泉とリラクゼーションとかです。今で言うウェルネス産業というのに気がついたわけです。そのあと、「これはやらなきゃ」となったわけです。

そうすると当然、「長期滞在をやらなきゃ」となりました。こうやって将来、絶対、別府の産業、ビジネスのネタになるというテーマがいくつか出てきたんですよ。ネタ探しの次に何をしなければいけないかというと、やりたいと思う人を集めないといけないんです。色んな人を集めてやっても、興味がある、ないっていうのがあるから、ともかく小集団でやりたい人だけ集めるというのが最初のベースとなり、そして、現在の活動のベースになりました。最初からやりたくない人を集めていたら、うまく進まないんですよ。ともかく足をひっぱるんですよね。だから、やりたい人だけ集めました。立命館アジア太平洋大学(APU)の畠田先生がやっているロングステイの研究会や、大黒屋の安波さんを中心とした鉄輪の地獄蒸しですね。再生のネタを探していって、それをやりたいとか、面白いとか思った人を集めていくという作業から始めました。

そうすると最後に、オンパクの5つのテーマが生まれてきたんです。オンパクの5つのテーマと言うのは、1つは別府の「温泉力」をどう見せて体験させるかです。そして、それに関連して非常に大きな温泉と健康と癒しと美という「ウェルネス産業」をどうやって育成するかになります。

さらに、別府が戦後喪った「文化」や別府独自の「文化」というものを見つけ出して、それを商品にしていくというものです。文化に関する典型的なものは散策ですね。まちあるきで古い別府の物語をガイドさんが話しているのを聞きながら、「別府は、こんな街なのか」と思うことです。文化という限りでは、流しの「はっちゃん・ぶんちゃん」もそうなんですよ。「はっちゃん・ぶんちゃん」という流しの文化は、かつてあった文化ですが、今はもうカラオケに駆逐されてないんですね。だから、もともとあった文化をもう一回再生させていくという流れを作るんです。芸妓さんもそうです。芸妓遊びも昔はあったんですが、今は別府に芸妓さんはほとんどいないんですよ。温泉地って昔は、どこでも芸妓さんがいたんですけどもういないんです。それをもう1回持ってきて、「温泉文化って何?」というところを体験交流しているんですね。それは、文化視点で別府の文化をもう1回掘り起こしてみようという取り組みです。

それと、当然、これはどこにでもあるんですが、「自然」をいかに体験してもらうかということですね。別府のイメージはどうしても街中にあるんですよ。でも、別府には、棚田や明礬の奥の方にある露天風呂などの自然もあります。特に、ここでは棚田が脚光を浴びたんです。四季に応じて作業があるので、1次産業っていうのは圧倒的に体験型プログラムを作りやすいです。

最後に「日常の食」です。この5つですね。日常の食というのは、いわゆる今、B級グルメなんかでやっているものです。例えば、お惣菜屋さんなんかはその土地によってかなり独自のものがあるんですね。お惣菜屋さんの場合は、別府で売っているお惣菜は福岡なんかでは絶対売っていないんですよ。全然違うんです。旅館の料理よりも違いがありますね。だから、お惣菜屋さんメニューの散策が出来たりするわけですよね。やっぱりそこにしかないからですね。お客さんはそこでしか見られない、食べられないんです。

この5つのテーマというのが、実は僕にとっては「別府再生のテーマ」なんですね。だから、ここに関わる人が増えるとか、ここに関わって事業をやっていくという人達が増えれば増えるほど、ある意味で別府っていうのが再生路線に乗っていって、なおかつ、今、言ったように集客交流としての機能も果たせるんです。別に宿泊客じゃなくても、隣町の人が来てもいいんですよ。オンパクが最初に発想したのは、隣町の人が別府に来て、体験して、面白いと思ってもらって、それを情報発信してもらうということでしたから。「隣町の人が面白いと思わない街に、宿泊客なんか来ない」というのが考え方の前提になっているんです。だから、宿泊客はもう後の後で良いんです。周辺の人が「別府って面白いね」って言いだすというところが極めて重要なところだったんですね。その後に宿泊客が来れば良いんです。だから、過去の観光振興と手順が違うんですよ。過去の観光振興は、例えば、福岡とか東京に行って、お客さんに「来てください。別府ってこんなところですよ」と宣伝していたんです。そういう手順ではなく、地元の価値をいかに高めるかということですよね。以前は、地元の価値は放っておいて、外だけにプロモーションやっていたんですね。衰退期の観光地では、基本的には地元にある価値をもう一度高めていかなきゃいけないんです。

―それに気付かれて、別府でオンパクを始められたのですね?

そうです。2001年からオンパクが始まり、色々なことが動き出しました。最初は、県から補助金をもらって始めました。

オンパクで、まちづくりの手法を変えたんですね。まちづくり系の話は随分前からやっていたんです。ただ、その手法がどうもわからなくて。誰を巻き込むとか、どういう事業をやっていくかっていうのが、よくわからなかったんです。そして、イベントというのは、花火みたいに集客は出来るけれども、持続的じゃないことがわかったんです。別府の名前は、その日だけ有名になるけれども、翌日イベント終わったら、祭りの後だから非常に寂しいんですね。それから、継続的に事業者さんを育てるというのは、ウェルネス産業など産業振興やるのが、ちょっと時間かかっても、実は一番早いかなと思います。

―次に、ジャパン・オンパクの展開について教えてください。

ジャパン・オンパクは、もともと函館から始まっているんです。函館の僕の友達が、オンパクの話を聞いて、「函館に来てほしい」と言われたんです。東京で講演会をやって、僕が話した時にちょうど函館の人がいたんですね。もともと旅館や観光協会の人間なので、主要な観光地の主要なメンバーはだいたい知っているんです。特に、若手ですね。若手と言っても、今は50代ですが。それで、函館に2回行きました。やっぱり、湯の川温泉という大型温泉地を持っている函館市の活性化の話でしたね。どこも大型観光地は大変なんです。それで、2回位行った後に、オンパク手法をやりたいという話が来たんです。その少し後に、大分県の勧めもあり、経済産業省のモデル化支援が獲得出来て、別府のオンパクを外に持ち出すような予算を付けてくれることになったんです。それで、函館もあまりコスト負担なく、僕らの支援を受け入れることが出来ました。

そこから、オンパクモデルを移植するのに、試行錯誤が始まったんです。でも、少なくとも最初からわかっていたのは、民間中心のリーダーが必要であることですね。行政主導だとあまりうまくいかないんです。参加型のプログラムを作っていくので、観光事業者さんだけが集まらないように、街の人を集めるようにしました。企画グループは、商品企画だから女性を中心に集めたりしました。それから、ITの担当者です。今、まちづくりにはIT担当者が必ずいるんです。昔はいらなかったですが、今はやっぱりインターネットでのプロモーションは必需品なので、インターネットにちょこちょこあたれる人間が側にいないといけないです。業者に委託していたらコストに合わないですからね。それで、函館では最低限それをやりましょうということになりました。ベースは、今言ったような人達ですね。あと、地域をどうにかしなきゃいけないというモチベーションの強い人は、やっぱり数人集めないといけなかったですね。3人とか5人は、コアとして、きちんと組織としていれる必要があります。それ位のことですよね。今でも中心はあくまでこれです。オンパクは、これがなかったら動かないです。あとは、いわゆるテクニカルな、予算の取り方とかなどを移植していくんですね。これが函館、第1号目です。

―そして、色々な地域に広まっていったのですね。

第2号目は、長野県の鹿教湯温泉です。ここは、お金がなかったので、僕が2回くらい行って、ITの仕組みだけ持っていきました。鹿教湯のリーダーは僕の後輩です。経済産業省のサポートがついていたので、「やる?」と聞いたら、「やる」と言ってくれました。ただ、今、言ったように鹿教湯温泉というところはITの仕組みだけです。今でもITの仕組みだけ貸しています。予約システムとウェブシステムですね。

そこから増えていきました。経済産業省の事業がうまくいったので、拡大していったんですね。それで、10か所まで伸びていったというのが経緯です。その中で、経済産業省の要望もあって、いわゆる導入マニュアルに関しての精緻なマニュアルを作成しました。予算が付いていたので、作らなきゃいけなかったんです。そこで、別府からオペレーション・運営で野上さんが現地に行って、企画で末田さんが行って、ITで門脇さんが行くというこういう3つの流れが出来てきたんですね。

僕は、時々、何かあれば行くようにしていますけど、あんまりテクニカルなことは話さないようにしています。さっきのような地域をどうにかしたい人をどうやって集めるかなど基本的な問題だけですね。あまり私心のない人を集めなきゃいけないからですからね。私心がありすぎると自分の企業のことばっかり考えていますから。観光産業って自分の企業だけ良ければ地域がよくなるかって言ったら、絶対良くならないですから。地域が良くなれば、最後、自分の企業も良くなるんですよ。地域で商売しているんですから、これはもう一般的なことです。また、地域コミュニティを、ある意味で同じ方向に向かわせておかなきゃいけないです。それもやっぱりテクニカルな問題というよりかなり人間関係の問題なんですよね。

―現在の確立したように見えるハンズオンのマニュアルは、そうやって少しずつ出来上がってきたんですね。

そうです。実は、これがジャパン・オンパクの流れです。最初、外に持っていったのは、オファーがあったから持っていったんです。面白そうというところから始まったんですね。そして、今の国の施策が、経産省のコミュニティビジネスとか、中間支援団体育成、NPOや社団法人の育成という方向にあるので、ぴったり噛み合っていったんですね。それで、予算が出るという構造になっています。

ハンズオンで手とり足とり支援したところはほぼうまくいっているので、一応オンパクの評価はあがっているということですね。今、APUの三好先生から成果軸の話、評価軸の話をいただいているので、あれも横並びで見る報告書を作成するときに、非常に役に立ちます。標準化ですね。だから、別府で標準化したものを函館に持っていって現地化するんです。標準化と現地化の繰り返しですね。色んな現地があって、当然その現地を見ていると、「あ、これ標準化した方がいい」っていうものが出てきて、それを標準化していくから、マニュアル部分はどんどん拡充されて、比較的精度の高いマニュアルが出来てくるんですね。これは、移植のテクニカルなところです。実際の話は、最初に言ったようにどんな人を集めるかで、成果は決まります。リーダーがこの人だったらうまくいかないかなとか思ったりしますね。

―うまくいかないことがわかった時はどうなさるんですか?

だいたい最初からわかりますけどね。どこでも、一定の成果はあげられるんです。ただ、やっぱりそれが持続的に続くかどうかっていう問題は、リーダー次第ですね。誰がやるか、誰が声をかけているかとかが一番難しいんですよ。コミュニティって、10万人都市の別府でもそうですけど、今、僕らが入っているところは、函館市やいわき市の人口約30万人が最高で、あとは、みんなもっと小さいんですよね。そうすると、コミュニティは、その地縁・血縁が強くなるんです。10万人都市とか、3万人の都市でやるというのがどういうことかと言うと、最初からこの人とこの人はコミュニティの中で仲が良いとか、仲が悪いとかがあるんですね。こういうとこが人間の原点なので、理論ではどうしようもいかないです。理論的に正しいと思ったことが出来ないのは、基本的にコミュニティっていうのはどちらかというと好き嫌いで決まっているからです。そこをうまくまとめあげられるやつじゃないと、途中で頓挫するんですよ。予算が下りてこなかったり、市長が変わった途端にバツになったり。だから、どちらかというと人間関係ですね。技術的な話もいっぱいあります。それは時間が経てば、精度があがりますし、理論的にも正しくなります。ただベースにあるのは、実はそんなものじゃないんです。コミュニティが衰退しているところから再生させるとか、成長させるっていうことのベースにあるのは、実はそこら辺の人間関係で作られるんです。どうネットワークしていくか、人間ネットワーク力をベースに持っていて、事が始まったり、終わったりするんです。非常に簡単なものですよ。誰でも出来るんですけどね。

あと、補助金取りのやり方なんかは、これもネットワークと関係しています。NPOは、補助金をもらわないと出来ない部分が多いですから。これは、ネットワークとアンテナを高くして、早くどこにお金があるかが探してくれば良いだけの話です。

それと、あと、ライターの問題ですね。何をどう書くか、どう表現するかは、ライターの問題です。ライターの問題は、各事務局、一番大変になってきますね。テクニカルな問題だけど、すごく大変です。ライターは、行政マンが一番得意なんだけど、なかなか行政マンがそういう仕事はしてくれないですよね。だから、さっき言わなかったけど、実は必要な人材のもう一つはライターです。きちっと的確にやる、プレゼンテーションをきちっと出来る人ですね。今、どうしてもプレゼンテーション能力がいるんですよ。10分位でA4一枚でやっていく力です。例えば、10枚で書いた補助金申請書があるでしょ。それを1枚にそれをまとめなきゃいけないんです。だから、サラリーマンでもそうだけど、そういう能力が高いというのは今、昔と違ってだんだん有利になってきていますね。でも、これはテクニカルな問題ですよ。基本的には、まちづくりにはテクニックや理論で動く人間なんて一人もいないんです。

そのうえで、やりたいことを理論的に1枚の紙にまとめていく、こういう能力がいるんですよ。こういうライター、プレゼンテーション能力というのは、NPOとかをやっていく上でやっぱり必ずいるんですね。オンパクでは、今、野上さんがやっています。

―今、野上さんの名前が出てきましたし、先ほど、人間のネットワーク力が大事だとおっしゃっていたので、スタッフの皆さんについてお聞きしてもいいですか?前回の門脇さんのインタビューで、門脇さんとオンパクの出会いは、門脇さんが急に仕事を辞められて、鶴田さんにメールをしたことがきっかけとおっしゃっていたのですが、野上さんと末田さんはどうやってお知り合いになったのですか?

野上さんは、1998年に竹瓦倶楽部を作った時からです。野上さんと、ヒットパレードクラブ(ヒッパレ)の今の副社長の栗田さんの2人に、竹瓦倶楽部の代表になってほしいとお願いしたんですね。前からまちづくり系の活動もやっていたので、竹瓦倶楽部作る時に、レールを敷いて、信頼の出来るお二人にお願いしたんです。

簡単な話、竹瓦温泉を行政が壊すと言った時に、「こりゃ大変だ」と思って、竹瓦を核にしようと思って。その前にも、竹瓦中心に500メートル以内のまちづくりを、そこだけ限定的にやろうとしていたので。そこを成功体験にしていけば、別府って良くなるだろうと思ったんです。歩ける範囲の観光地でもう限定的にやろうとしていたんですよ。そのベースとして竹瓦をベースとしたまちづくりをすることになって、竹瓦倶楽部というものを作るということになったんです。住民の反対に合わないように、筑紫哲也さんを呼んできて講演会(別府観光産業経営研究会主催)をやったんですよ。大分県の出身だから、安いギャラで来てくれたんです。言って欲しいことは、おじいちゃん・おばあちゃんに竹瓦温泉は街にとって大切ですということでした。動員力あるから、おじいちゃん・おばあちゃん達が来てヒッパレがいっぱいになりました。実は、おじいちゃん・おばあちゃんは竹瓦温泉は使いにくいものなんです。バリアフリーじゃないし、足が悪い人は階段降りられないので、シャワーがあって、バリアフリーで、日常使えるほうがいいじゃないですか。でも、あれはあのまま残すだけの、集客交流施設として、文化財としての価値ありますよね。あれが、普通のバリアフリーの温泉になっちゃったら、観光客は誰も来ないですよね。だから、まちづくりの拠点として、一番必要なのはこの街の中で竹瓦温泉ですね。

それが野上さんとの最初です。彼は、どちらかと言うと、もっと大人しい人だったんですね。本人に聞いてみて下さい。ただ、非常に優秀なところがあって、堅実だし、真面目だし、真っ直ぐ行くし。すれていないんですね。すれていると、町の人は見抜いてしまいます。そして、竹瓦倶楽部は自然にまち歩きを始めたんです。徐々にそこで、野上さんに一番光があたったんですよね。それで、オンパクをやるなかで位置づけが今みたいなことになってきたんです。事務とか、ライターの役割とか、いわゆる論理的に精査に組み立てるとかいうことですね。彼はもともと工学部なので、物事を詰めていくことが非常に得意です。もっとさかのぼると、野上さんは僕がやっていた旅館の研修生の3期生でもありました。昔、JTBで旅館の研修スクールのようなことをやっていたんです。

末田さんはもともと旅館組合にいたんです。事務局で使っていたんだけど、だんだん自分の能力に自分で気がついたんでしょうね。それで、自然にああいう風に企画のコーディネーターになっていったんです。野上さんと年も一緒ですしね。彼女がヨソモノで女性であったことも好結果を残せた要因ですね。

―そうして、今の4人が揃われたんですね。ドラマのようですね。

まちづくりはエンドレスですからね。ただ、ある意味で成功体験というのはあっという間に失敗体験に繋がります。さっき、地域も人間と同じだと言ったんですが、事業もそうなんですよ。環境に応じた事業でしょ。事業が、今はとてもうまくいっているように見えるけれども、それはその環境に適合しているからうまくいっているだけであって、次の打つ手を間違えたら、すぐぼろぼろになるんですよ。

―では、どのようにその関門を乗り越えていくべきなのでしょうか?

NPOは、非常に脆弱です。実は法的にも脆弱なんです。株式会社はしっかりしているけれど、NPOは脆弱すぎるような組織です。制度とか組織的には何も成熟してないんです。そういう中で、事業規模を膨らましていくと、一つボタンをかけ違えるとガタンっていきます。だから、それを安定した企業のようにしなくてはいけないんですね。例えば、ある程度安定した雇用の場にしていくとかということです。今は、緊急雇用のお金があるから雇えるだけで、実力では全く雇えないんですよね。企業は違うでしょ。

これだけ考えても脆弱ですよね。だから、ビジネスモデルとか、公益型の組織の基盤を作っていかなきゃいけないのかということをかなり実験的にやっていると思った方が良いです。事業はあたかも成功しているかのように見えるけれども、実は極めて寄って立つ所は脆弱で、もう明日無くなっても不思議ではないんです。だから、社会の中でNPOや社団法人といった組織が確立出来ていくのかっていうのを、実は実験しているんですよ。どんな風になるのかは、まだわからないです。

アメリカみたいに比較的NPOが社会的基盤の中で制度的にも仕組みの中にきちっとはまり込んでいるわけではないですからね。アメリカは、NPOに就職したい子っていうのは大卒でもすごく多いです。一般企業よりも多くなりつつあるという位です。キャリアアップにもなるし、労働市場も自由ですから。キャリアアップしていければ、どこでも働けますよね。そういう意味で、アメリカの場合は確立されているけど、日本の場合はまだまだです。どこに行くんだろうっていう感じですよね。一応、民主党はそっちの方向にはあるとは言いますが。そうじゃないと、若い人が就職しようとしないですよね。優秀な人間は雇うのにお金がいるんです。優秀な人間がいないと組織って大きくなれないし、給料も上がらないんですよ。家庭が出来ると、ボランティア意識だけに依存するっていうのは出来ないんです。独身の人は、月十何万でもいいやとか、手取り14~5万でもいいやっていけますが。家庭が出来て、子どもが出来ると絶対言わないですからね。いくら稼げるかというのは、極めて重要な話なんです。だから、きれいなボランティアでやっている訳でも何でもないですよ。そこら辺は、きちっと社会の中にはまり込んでいかないといけないんです。ただ、要件を一つだけ言うと、それは「高い志」です。

―では、それは今後の課題ですか?

日本の中で必要とされることだろうし、必ずそういう組織が必要になってくると思います。ただどうやって、その枠組みを作っていくかっていうのは試行錯誤ですよね。この10年、オンパクを試行錯誤でやってきたのと一緒です。だから、次が見えないです。やりつつわかっていくんですね。誰かがヒントを与えてくれたり、人が刺激し合って、新しいアイディアが生まれて来たり。そういうことだろうと思いますね。一人で考えていても絶対に出来ないです。

―では、これからのやりたいことや、オンパク・ジャパンの拡大についてのお考えを聞かせて下さい。

オンパク・ジャパンの場合はね、やっぱりどこかでITモデルがいると思いますね。

―ITモデルですか?

モデルとしては最初にビジネスモデルとして書いたのはITモデルですからね。いわゆる共通基盤のITです。今、ASPサービスをやっていますけどね。ITって言っても、共通基盤のITの中でのウェブシステムです。ウェブシステムをどう構築して、そこに各々の顧客のエクスチェンジをやるかっていうのがとても重要かなって思います。別府には顧客が5,500人いて、函館に2,000人いて、熱海に3,000人いるとかですね。それぞれが顧客を積み重ねるんですよ。そこに向かって、情報発信していくんです。ある意味顧客を囲い込んでいる訳ですね。今は、囲い込みモデルを作らなきゃいけないので。そこで、集客交流人口をどう増やしていくかです。少なくとも宿泊交流人口を増やす一翼にしていく必要があるんですね。地域にとっては、それは外需でありますけどね。内需っていうのは行政単位の枠の中で動いていて、大分市から来ているとか、別府市内の人であるとかのことです。これは良いんですよ、全然問題ないです。ただそれだと、エリアの外に経済が広がらないですよね。お金を回しているだけですから。だから、エリアの経済発展には、外需の部分がどうしても必要なんですよ。そうすると一番良いのは、たくさんオンパクやるところが出来て、顧客のシステムが同一システムで出来ていれば、お互いにいかようにも使えるということです。やっていることは思想的には一緒なので。ウェブシステム一緒にしておけば、同じ様に顧客を獲得していけば、そこである一定の囲い込んだ中での情報提供が出来るから、極めて効率の良い集客交流が出来るんですね。今、マス媒体でやろうと思うと、テレビなどにタダで取材に来てもらうかしかないんですよ。全国紙で雑誌1ページを使える予算はどこにもないわけですね。

事業者さんがどんどん出来てくるっていうのはとても大切で、キーポイントとしてそれを今やっています。今やっていることは、とても正論で正しいですが、次やるのは、やっぱり外国人観光客(外客)部分なんです。今、国と一緒にやっている事業が、DMC (Destination Management Company)の事業です。外客受け入れのDMCが比較的利益率が高いので、それをベースにしていく手もあります。ただ、それは将来の話です。

―先程、1990年代の衰退を何とかしようという思いから街づくりやられてきたと聞かせていただいたのですが、何十年とやられているモチベーションはどこから来るのでしょうか?

宿命。もうそれしかないです。好きでやっている訳でも何でもないです。別に好きでやっている訳じゃなくて、これは自分が生きている上でのなんかこう運命だなぁと思います。よく言うけど、そうなんですよ。だって、好き嫌いで20年以上もこんなこと出来ないです。そう思わざるを得ないですね。「地霊」に呼ばれている感覚です。

結局ネットワークの中で、色んな人がネットワークに引っ掛ってきますよね。それで、付き合いを深めるでしょう。そうすると色んなことを教えてくれるんです。一所懸命何でもやっていれば、誰かがどこかで見ていてくれて、またどこかで知らないうちに助けてくれたりしているはずなんです。自分の能力だけで生きているのではなく、普通の能力の人間をたくさんネットワークしているからやっていけるのではないでしょうか。

ただ年齢だけは気をつけておかなきゃいけないですね。だんだん過去に固執しだすと、やっぱり次の手が打てないんですよね。だから、出来るだけ過去は全部忘れて、記憶の中から削除したほうが良いと思います。成功体験は出来るだけ消していって、まだやり残したことが山程あるって言う状態の方が、頭の中が活性化します。僕は57歳だけど、もう終わったって思わないことですね。

どこかで終わるんでしょうが、終わらせる時が難しいんですよね。人間引き時が一番難しいって言いますから。だから、一番良い時に止めるのが一番良いんです。イベントなんかもトップで一番良い時にポンと止めた方が良いんです。ずるずるやっていると、イベントとしての価値がどんどん少なくなってくる訳ですよね。それで評価がきつくなってくるでしょう。だから、止める時は人が集まらなくなって、どうしようもなくなって止めるんです。こんなイメージの悪い話ないですよ。イベント型で人工的に作ったイベントと言うのは、やっぱり一番良い所でポンと止めるのが一番です。

―それは、オンパクにおいても同じことが言えますか?

オンパクなんかもそうです。時代に合わなくなったら、即止めないといけないですね。止めて困る人がいっぱいいれば、また別なのですが。その状態が一番良いんですよ。止めても誰も困らないという状態だったら、それはもうやっている意味無いですもんね。公益型なので、企業と違いますからね。だから、誰に恩恵を施しているのかというところが、実は一番大切なんです。自分達で自画自賛して、公益型なんていうのはアホですよね。だから、やっぱりいかに多くの人に公益型NPOが、オンパクっていう手法が役に立っているかっていうことを認知してもらって、止めるっていったら、皆が止めないでと言ってしてくれる位の事業になっておかないといけないです。たださっき言ったように、時代が変わると絶対にどこかでいらなくなりますよ。一生続くなんていうことはないです。長くても30年位、短ければ15年位ですかね。ここがある一定のコンセプトを持った事業の限界だと思います。時代の流れの中では、今は一番良いかもしれないです。ピークになったら、後は下がるだけですから。だから、さっき言ったように止め時が難しいんですね。その時は、次の手を考えないとね。だから、いつも次の手を考えています。

―とても勉強になりました。大変貴重なお話をありがとうございました。




(インタビューをした個人的な感想)
私が鶴田さんにお会いしたのは初めてだったのですが、始めの印象は噂通りの“優しい人”です。しかし、インタビューをしていて受けた印象は、優しさの中に秘められた別府のまちづくりに対する熱い思いを持った、正に“街づくりのカリスマ”でした。
聖夜に毎年行われるクリスマスHANABIファンタジアは別府の数あるイベントの中でも、私が大好きなイベントなのですが、鶴田さんはこのイベントに対して意外な評価をされていました。高い集客率と、あの賑わいからして誰もが100パーセント成功のイベントだと考えるところ、なんと鶴田さんは「成功とは言えません」と断言。瞬間的なイベントで、別府の本質を変えるものではないとのこと。「ううん、なるほど」と呻ると同時に、こういうところが町づくりのカリスマだと感じさせるのだろうと思いました。
 別府のまちづくりに対する熱い思いと、それ故の冷静すぎる程の評価をされる鶴田さんがいる限り、別府のまちは進化し続けるでしょう。





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